物忘れが激しくなっても「老化」と決めつけないで 横尾忠則がすすめる「自分を認める」考え方
どんどんどんどん物忘れが激しくなっていくのは老齢のせいだと思いますが、最近は生活にその悪影響が起こり始めています、というよりすでに起こっています。
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でも日によっては、「冴えている」と思う日もあります。このまだら現象が全く理不尽に起こってしまうのです。確かに日常生活では困るのですが、この現象が制作時に起こるのはそう悪くなく、むしろ歓迎したいと思うことがあります。
どういうことかといいますと、一点の作品の中で、このまだら現象が起こると、まあ簡単に言ってしまえば、絵が文字通りまだらな表現になって、「おっ、面白いじゃないか」ということで、大歓迎なんです。絵だって突然描き方を忘れることがあります。かと思うと手と頭が解離してしまっていて、頭を無視して手だけが都合のいい風に勝手に動いてくれたりもするのです。
だけど、この現象を老化と決めつけてしまうと、ストレスになります。一般的によくあるように、このことを「できない」とか「忘れた」とか思わないで、これが老齢の今の限界だと認めることです。あら、昨日までできていたことが突然今日はできない、という身体的ハンデキャップとは思わないことです。ハンデこそが個性だとか、今の自分の自然体とか、なんでもいいけれど、それを認めることで、自己発見に結びつくのです。
ところで、僕は画家ですが、こうしてエッセイのような文章を書くことがあります。昔、といっても5年前、10年前に書いた文章を読むと、もう少しましな言葉を並べていますが、今は、そんな言葉が浮かびません。でも僕は、絵を描くためには思考や言葉が邪魔になるので、無意識に言葉を信じないようにしているところがあります。言葉なんて実にいい加減なもので、自分を認めたりとか、確かめたりするための手段みたいなもので、わざわざそんなことさえもしなくていいんじゃないか、考えられない、忘れた、なんてことがあればそれはそれで、言葉以上の言葉にならない領域に自分は達したんだ、とかなんとか自分を誤魔化すことも時には必要じゃないのかなと思いましょうよ。忘れたこと、知らないことを恥じるんじゃなく自慢するのです。
「そんなこと知らん」とか、「そんなこと知ってどないなるんや」、「知らん方が悩みがなくて、ええで」とか、自分を否定するんじゃなく自分を認めるんです。老齢に抵抗するんじゃなく、自分の無能を認めることで、うんと楽になります。アホになることを恐れてはいけません、アホになることを美徳だと思うくらいになるべきです。
僕は物書きじゃないので、いくら下手くそな文章を書いても自分は困りません。上手な文章を書かないと仕事がこないとか、人に尊敬されないとか、そんなことは考えません。尊敬されたとしても、別に喜こんだりしません。そんな欲望も意欲もありません。意欲を失くすことは生き易いことだと思っているのです。
最近の僕の絵は描けば描くほど下手になっていきます。これこそが今の自分であり、今の自然体です。上手に描こうと思ったら、途端に自由でなくなります。下手だからこそ自由なのです。上手に描こうと思ったら人の目を意識します。その瞬間からその人は自由でなくなっているのです。人のために生きたいなら、自由を失なっても上手に描こうと思いなさい。自分のために生きたいと思うなら、下手に生きることが一番です。
人は老齢になることで自分のために生き、自分の自由のために生きるようになっているのです。もし延命したいなら、この生き方しかありません。早く死にたきゃ、人の目を引く生き方をすればいいです。その代り寿命は保証できません。
考えることはいいことだ、人間は考える葦だとパスカルが言ったかどうかは知りません。人間は考えないほうが生き易いです。まあ、趣味程度に少しは考えてもいいかも知れないけれど考え過ぎは最悪です。絵でも考え過ぎた絵は立派に見えるけれど、実に非魅力的でつまらない絵になります。
親も学校も会社も、社会も、「考えろ、考えろ」と押しつけてきました。人間は考え過ぎた結果、核のような恐ろしいものを作ってしまったのです。これから先きの人類の未来はAIの支配する世界になります。以下は究極の考えですが、AIを作った人類は多分というか絶対にAIに裏切られ、復讐されて、そう遠くない時期に滅びると思います。
AIが永遠の生を獲得するのに対抗して肉体を保存しようとする唯物的な考え方に、人類は向かっているのです。人間を肉体的存在と決めつけ、人間の魂や霊性こそが人間の本体であるということに対する無知の結果によって、人類が滅びるシナリオができつつあるのです。
物忘れを悪徳と決めつけた結果です。