附属池田小事件「怪物・宅間守」 自白で流した涙は「事件を後悔して出たものではありません」
調書の中で交錯する悔悟の念と殺意
以後の供述調書には、数百ページに亘って、犯行の状況が写真とともに克明に記録されている。
そしてその中には、嘘か真か、公判では微塵も見られなかった悔悟の念のような言葉も見つけることができるのだ。
〈前に話したときには、やはり心の中のどこかに事件をやったということを認めているのだから、はっきりと思い出すことは必要無いのではないか、また、事件の詳しい状況を思い出すことによって、恐怖感がよみがえるのではないかなどという考えがあった〉(6月30日付供述調書)
〈私が覚えていることを説明することは、私が殺した子供達への供養にもなると考えて、現場に行くことに応じました〉(7月3日付供述調書)
むろん、裁判での態度を見ていれば、これをストレートに受け取ることはできない。なぜならば、同じ調書の中でも、〈できるだけ多くの子供を殺してやる気でやっていますので、邪魔しに来る大人は、殺してやる気なのです〉と言い、最後には、〈殺した人数は私が望んでいた数よりは、少なかった〉とうそぶいている。
「出来るだけたくさんの人を殺して死刑に」
事件から3カ月後の9月13日、大阪拘置所に移管された宅間は、検事から数十回目となる調書を取られた。そこで彼が語ったのは、逮捕直後の3日間を忘れたかのような強がりだ。
〈自分の人生を悲観して自殺しようとしたのですが、それも遂げられませんでした。私は何もかもがじゃまくさくなりもう無茶苦茶やってやろうという考えになったのでした。私自身積極的に死刑になってやろうとまで言うような気持ちまではありませんでした。しかし、たくさんの人を殺すような大変な事件を起こす以上は死刑になることは当然覚悟していました。私としては、1人や2人殺して数年間服役するという中途半端な結果になるよりは、出来るだけたくさんの人を殺して死刑になったほうがよいという気持ちがあったのでした〉
昨年9月(編集部注:2004年9月)、大阪拘置所で死刑を執行され、怪物・宅間はこの世を去った。
おそらく拘置所内の彼にとって意外だったのは、女性から求婚され、結婚できたことだろう。獄中結婚した30歳代の妻は、絞首刑のローブの跡が首にくっきり残る宅間の遺体にすがりついて号泣し、一晩、遺体の横に布団を敷いて、添い寝をしたという。
宅間の骨を4つの骨壺に入れて、火葬場からすべて持ちかえった妻は、近く、海の見える自分の故郷に、宅間の墓を立てるつもりだという。
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「この空白の3日間が勝負やったんや」――。第1回【児童と教諭23人を殺傷した附属池田小事件「宅間守」 捜査員が逮捕後3日間の“姑息な演技”を見破った“一瞬の反応”】では、逮捕後3日間に亘る宅間の“演技”について伝えている。
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