【べらぼう】えなりかずき演じる強烈な藩主「松前道廣」 ドラマよりシュールな藩政と人生
隠居してもやりたい放題
しかし、事態はそれでは収拾しなかった。寛政4年10月、嫡男で数え16歳の章廣が藩主になったが、道廣はその後も勝手な行動を重ねた。遊興の一環のつもりだったのか、戦いは好きだったらしく、寛政8年(1796)にイギリス船が出没すると、章廣や家臣の反対を押し切って出陣するなど、やりたい放題。結局、文化4年(1807)3月、幕府から江戸屋敷での重禁固を命ぜられる。
だが、道廣の放蕩のツケは、彼への処分だけでは済まなかった。寛政11年(1799)、幕府は蝦夷地の支配権の大半を松前藩から取り上げ、代わりに武蔵国埼玉郡5,000石をあたえた。とはいえ、これは7年間の時限措置だったが、期限の享和2年(1802)になっても蝦夷地は返還されず、それどころか文化4年(1807)2月、残されていた西蝦夷地も取り上げられ、陸奥国伊達郡梁川(福島県伊達市)に移封になってしまう。
これは明らかに道廣への懲罰だった。加えて同年、道廣は重禁固になるのである。このとき道廣は数え39歳。以後はずっと江戸屋敷に住まうことになった。文政4年(1821)、松前氏はふたたび蝦夷地の支配を命ぜられ、このとき道廣の謹慎も解かれるには解かれたが、その後もずっと江戸屋敷ですごさざるをえなかった。
天保3年(1832)6月に死去したときは、数え79歳になっていた。憎まれっ子は次第に自由を奪われながらも、世に憚ったのである。
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