「大谷選手と話すことが長嶋茂雄さんの夢だった」 病院の反対を押し切って3月に対面…巨人軍関係者が明かす「2ショット写真を非常に気に入っていた」

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「大谷に会うためにかなり頑張って病院から出てきていた」

「ミスタープロ野球」長嶋茂雄さんが6月3日、東京都内の病院で亡くなった。享年89。現役時代だけではなく、巨人や日本代表の監督になってからも多くのファンを魅了してきた昭和の英雄が野球界の未来を託したのは、令和のスター、ドジャースの大谷翔平選手だった。

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「ミスタープロ野球」死す――その報に触れたドジャースの大谷翔平選手は自身のインスタグラムに、巨人の長嶋茂雄終身名誉監督とのツーショット写真3枚を投稿、「心よりご冥福をお祈りいたします」との言葉を添えた。そのうちの2枚は今年3月15日、東京ドームで行われた巨人とのプレシーズンゲームで対面した際に撮影されたものだ。大谷はドジャースのユニフォーム姿、長嶋氏は車いすに座っており、共に笑顔を浮かべている。

「長嶋さんは大谷に野球界を託したい、という思いを持っていて、あの日も大谷に会うのをすごく楽しみにしていました」

 そう明かすのは長嶋家の事情に詳しい関係者。

「大谷との対面を終えた後、長嶋さんは近しいメンバー数人と東京ドームホテルのレストランで食事を共にしています。そこではフルーツを少しだけ口にする、という程度だったそうです。体調が思わしくない中、大谷に会うためにかなり頑張って病院から出てきていたのだと思います」

長嶋さんの二つの夢

 国民的英雄、長嶋氏の訃報は突然もたらされた。都内の病院で亡くなったのは6月3日。死因は肺炎である。享年89。

「2004年に脳梗塞で倒れて以来、リハビリを続けてきた長嶋さんには二つの夢がありました。一つは元巨人の松井秀喜氏が巨人の監督をしている姿を見ること。もう一つが、大谷と話をすることです」

 そう語るのは、スポーツニッポンの元記者でスポーツジャーナリストの吉見健明氏である。

「長嶋さんは今年3月に大谷と対面する前にも、帰国中の大谷と極秘で食事を共にしています。長嶋さんは大谷が日ハムにいた当時から“会いたい”と言っていました。長嶋さんは日の丸を背負って戦うことを大切にしていました。大谷にもそういう思いがある、と直感していたのではないでしょうか」

脳梗塞を患い、懸命にリハビリ

 長嶋さんは1958年に巨人入団。プロ野球史上初の天覧試合でサヨナラホームランを放つなど大舞台に強く、王貞治氏とのONコンビで65年から9年連続日本一を達成。74年、「わが巨人軍は永久に不滅です」との言葉を残して引退した後は巨人の監督を2期、通算15年間務めた。2期目の96年には首位との11.5ゲーム差をひっくり返してリーグ優勝し、「メークドラマ完成」とたたえられた。

 そんなミスターがアテネ五輪の野球日本代表監督に就任したのは02年12月。03年、五輪予選で中国、台湾、韓国を破って出場権を獲得するものの、翌年、脳梗塞で倒れ、五輪での指揮を断念した。一方の大谷は23年の「ワールドベースボールクラシック」で優勝。日の丸を背負い、投打にわたって大活躍した大谷の雄姿に、ミスターも胸を熱くしたに違いない。

 04年にミスターが患ったのは脳梗塞の中でも比較的後遺症が重くなりやすいとされる心原性脳塞栓症で、右半身のまひと言語障害が残った。以降、ミスターが懸命に取り組んできたのがリハビリだ。火曜日から金曜日は都内の国営公園に朝7時45分に到着し、運転手と介護士に伴われて園内を1周する。土曜日はよりハードなトレーニングを行い、日曜日は休み。月曜日はその国営公園が定休日のため、田園調布の自宅からほど近い多摩川沿いの公園に場所を変えて体を動かした。

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