「単純な逆上がりでも他の子と動きが違った」 コーチが見逃さなかった「冨田洋之」の秘めた才能 “栄光の架橋”で金メダルを手にするまでを本人が振り返る(小林信也)
“逆上がり”に違い
冨田が体操を始めたのは8歳の時。
「友だちがクラブに通うというので一緒に見学に行ったのが最初です。あまりやりたくなかったけど、母親に言われるまま通い始めた」
自転車で約20分のマック体操クラブに週2回通い始めて1年たたないうち、
「本店の競技コースに誘われたんです。バク転とか宙返りとか難しい技のできる子は他にたくさんいたのに」
冨田はまだ選手になる気などなかった。五輪の存在さえよく知らなかった冨田が、なぜか抜てきされた。
「後になって聞きましたが、単純な逆上がりでも他の子と動きが違ったそうです」
秘めた才能をコーチは見逃さなかった。それが“28年ぶりの快挙”につながる。
「マック体操クラブの先輩には池谷幸雄さん、西川大輔さんら、五輪でメダルを取った先輩がたくさんいると聞かされて、オリンピックを意識し始めた。でも自分が行くとかは全然考えなかった」
同じクラブに同学年の天才少年がいた。アテネでもチームメイトだった鹿島だ。
「鹿島は中学3年で全日本選手権のあん馬に優勝。レベルが全然違いました」
つなぎでも演技
クラブの同期は大半が体操の強豪、清風中学・高校に進んだ。が、コーチは冨田に別の助言をした。
「同じ学年に20人もいるから、清風に行ったら器具を使える時間が少ないぞ」
それで冨田だけ、京都の洛南高校に進学した。結果的にこれが合っていた。高校2年で鹿島を抑え、インターハイ王者になる。
「中学の大会は、つり輪、平行棒を除く4種目でした。私は当時、ゆか、あん馬、跳馬が苦手だったので、高校生になって得意の2種目が増え、順位も上がりました。マックは中学生にも全種目の基礎を練習させていた。その成果が出たのでしょう」
高校では、体育館にあった過去の名選手たちのビデオをむさぼるように見た。
「目を奪われたのは、バルセロナ五輪で6個の金メダルを取ったビタリー・シェルボ選手(EUN)でした。
体操は10個の技で構成します。だから一つ一つの技の完成に集中しがちですが、シェルボ選手は違いました。技以外のつなぎでも演技している。例えばゆかの方向転換、体を伏せるだけの動きにも気を配っていた。緩急があって、それが見る人を魅了する秘密だと感じた。個々の技の完成度だけでは感動しません。全体を一つのまとまった演技にする、そこを追求した」
冨田が残した名言、「美しくなければ体操ではない」の源泉はそこにあった。コールマンと新月面ばかりが注目されがちだが、技と技のつなぎの正確さと切れ味、つなぎの動きへの気遣いの深さなしに、あの感動は生まれなかった。