打撃不振の日ハムが善戦 過去には12球団ワーストのチーム打率でリーグ優勝も…“貧困打線”でも優勝できる「条件」を野球史から紐解いた

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 新庄剛志監督率いる日本ハムが、チーム打率2割前半の“打低”にもかかわらず、首位争いを展開している。そして、過去にも貧打を克服して、リーグ制覇や日本一を成し遂げたチームが存在する。【久保田龍雄/ライター】

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12球団ワースト打率でリーグ優勝

 チーム打率2割2分台でリーグ優勝を達成したのが、2011年の中日だ。

 同年に導入された飛ばないボール「統一球」の影響で、どのチームも打低傾向のなか、中日はチーム打率.228、1試合平均得点2.9といずれも12球団ワースト。規定打席到達者3人の中で荒木雅博の.263がチームトップ(リーグ15位)という体たらくでは、得点力不足も無理はなかった。

 だが、頼りにならない打線を、リーグトップのチーム防御率2.46を記録した強力投手陣がカバーする。エース・吉見一起が自己最多の18勝を挙げ、リリーフエース・浅尾拓也も登板79試合で防御率0.41と驚異的な数字を残した。そして、守護神・岩瀬仁紀も37セーブと安定し、1対0の10勝を含む1点差勝利33試合という勝負強さにつながった。

 それでも優勝までの道のりは苦難の連続だった。開幕から2勝6敗1分と大きく出遅れたあと、5月18日に初貯金(13勝12敗)、同29日、初めて首位に浮上した。だが、6、7月は43試合中24試合まで2得点以下という貧打で2ヵ月連続負け越し、8月に首位・ヤクルトに10ゲーム離されたときには、優勝は絶望的に思われた。

 しかし、9月下旬から10月中旬にかけて15勝3敗2分と怒涛の猛スパート。10月10日からのヤクルトとの4連戦でも全勝し、奇跡的な逆転Vでリーグ2連覇を成し遂げた。

 終盤の快進撃は、9月22日に発表された落合博満監督の事実上の解任と、9月18日の巨人戦で0対4の敗戦後、“アンチ落合派”の球団幹部がガッツポーズして喜んだという一部報道に対し、ナインが「なにくそ!」と発奮したことが起爆剤となった。

 さらに落合監督就任後、7年間で3度のリーグ優勝、2007年に日本一と、ナインが“勝つ味”を知っていたことも土壇場での底力につながり、NPB史上のべ4球団目のリーグ最低打率で優勝の珍事が実現した。

チーム打率はリーグワースト、総得点数はリーグトップ1961年の巨人

 前出の中日よりも低いチーム打率でリーグ優勝、日本一を達成したのが、1961年の巨人だ。

 川上哲治監督就任1年目の同年、巨人打線は首位打者(打率.353)、本塁打王(28本)の二冠を獲得した長嶋茂雄を除くと、王貞治が打率.253、13本塁打、広岡達朗が.203、10本塁打と破壊力に欠け、「長嶋以外に打つ奴はおらぬ」と陰口を叩かれた。チーム打率もリーグワーストの.227だった。

 投手陣も中村稔の17勝が最高で、二桁勝利も3人だけと、台所事情は苦しかった。

 4月を9勝8敗1分と何とか勝ち越すと、5月中旬に7連勝して首位に立ったが、その後は中日、国鉄と三つ巴の争いが続く。

 だが、8月は主力投手陣が相次いで不調に陥り、同24日まで4勝12敗2分と大きく負け越すなど、一時は3位転落と大苦戦。そんな窮地を救ったのが、9月4日に関西大を中退して入団した新人・村瀬広基だった。

 当初村瀬は翌春の大学卒業を待って巨人入りする予定だったが、「エースなき投手陣」とまで言われたチームの苦境を救うため、窮余の一策で前倒し入団させると、デビュー後、5連勝して一躍新エースになった。

“村瀬効果”で9月を15勝8敗とスパートに成功した巨人は、ライバル・中日の9月後半の失速にも助けられる形で、10月9日、中日が広島に敗れた結果、2年ぶりVが決定。チーム打率とは対照的に総得点数がリーグトップだったことから、「人の和の優勝」と呼ばれた。

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