「全員集合」の牙城に「ひょうきん族」が殴り込み…フジとTBSが火花を散らした仁義なき「土8戦争」を振り返る

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先陣を切ったのはフジ

 4月6日、TBS系で特別番組「今夜復活!8時だョ!全員集合 ドリフ伝説コント20連発」が放送された。昨年、結成60年をむかえたザ・ドリフターズの看板番組である「8時だョ!全員集合」(以下「全員集合」)は、最高視聴率50.5%を記録(1973年4月7日放送・関東地区)し、“お化け番組”として昭和のテレビ史に刻まれている。

「全員集合」が放送された“土曜日午後8時”といえば、テレビ局にとってゴールデン枠の中でも最も重視される時間帯だった。翌日は日曜日で休み。週末の夜のひと時、家族そろってテレビを見ながら団らん――「昭和」の風物詩でもある。

 気になる特番の視聴率は7.7%(世帯、以下同)だった。同時間帯の他局を見ると、日本テレビは「鉄腕ダッシュ」が9.2%、「イッテQ」が8.7%。テレビ朝日の「全国大衆食堂グランプリ」は9.4%だった。

「渦中のフジテレビの『あり得ない映像大賞』は6.6%。ドリフ特番はフジには勝つことができました。この状態に既視感を抱く業界関係者は多かったはずです」(放送担当記者)

 というのも、この土曜日午後8時に放送される「全員集合」を巡って、フジとTBSの間で、し烈な視聴率争いが繰り広げられたのをご存じだろうか。業界内では「土曜8時」をもじって「土8(ドハチ)」、さらに転じて「土8戦争」と呼ばれた長い戦いである。

 先陣を切ったのはフジだった。

 1968年、バラエティ番組では初のカラー放送として「コント55号の世界は笑う」がスタートする。当時のコント55号(萩本欽一・坂上二郎)は、テレビ業界関係者をして、

「飛ぶ鳥を落として拾って歩いている」

 ほどの大人気。それに比例し、番組の視聴率は30%を超えた。一方、この時期のドリフはというと、

〈1月よりスタートの「進めドリフターズ」(TBS系)でメインの番組としては初のゴールデン・タイムへ進出。ところが、いかりや(長介)が2月に持病の痔の手術、4月には舞台稽古中に転倒して肋骨にヒビが(略)番組は7月で打ち切られてしまう〉(白夜書房「笑芸人」1999年冬号)

 しかし、TBSは翌1969年10月4日、「全員集合」をスタート。翌70年「世界は笑う」は、視聴率で抜かれ、同年3月に放送が終了――これが「第1次土8戦争」である。

絶対王者の「全員集合」

「全員集合」は71年1月に視聴率50.4%をマーク。その勢いはとどまるところを知らず、72年には加藤茶の「1,2,3,4,やったぜカトちゃん!」や「チョットだけよ」が大ヒット。翌73年に冒頭で記した最高視聴率をマークする。

 一方のフジも、「全員集合」の快進撃を黙って見ているわけではなかった。こちらも大ブームを巻き起こす番組を送り出す。

 1975年4月、萩本欽一司会の「欽ちゃんのドンとやってみよう!」で巻き返しにかかった。かつて「全員集合」の躍進で、自身の番組が終了した萩本だが、新しいスタイルの番組を考案、視聴者の関心を集めることに成功するのである。大人気となった名物コーナー「レコード大作戦」などが知られるが、

〈もともとラジオ番組の投稿コーナーをテレビ化した『欽ドン』はドリフのような作り込んだ笑いではなく、視聴者から送られたネタをメインにコントを展開していくという、ドリフとは正反対の非常にアドリブ性が強いものだった。そこが新しい笑いに飢えていた層に受け、視聴率が上昇。ついには『全員集合』を上回るようになる〉(同)

 81年に「欽ドン」は月曜夜9時に枠が移るが、それまでは一進一退の攻防を繰り広げていた――これが「第2次土8戦争」となるが、「全員集合」は枠も変わらず、土曜8時に君臨し続けた。

 ここでもまたフジは劣勢に立たされる。しかし、新たな番組が出てくるパワーが、この時代のフジには満ち溢れていた。

 ドリフの牙城に殴り込みをかける「第3次土8戦争」の火ぶたが切って落とされるのが、81年から始まる「オレたちひょうきん族」である。

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