「吉田義男氏」死去で考えた もし「清原和博」が1996年に阪神に移籍していたら…FA争奪戦で、伝説の口説き文句「縦じまを横じまにしてもいい」が飛び出した

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イバラの12年間

 争奪戦の最終盤では、長嶋監督も「背番号3を用意する」「僕の胸に飛び込んでおいで」との台詞で口説いた。しかし、入団会見時の監督の、その言葉とは裏腹の表情は、清原のその後を暗示していたのかもしれない。

「清原に巨人の帽子を被せた時に一瞬、笑顔が完全に消えました。それは落合さんや他のFA移籍で獲得した選手に対しては決して見せなかった表情でした」(前出記者)

 こうして1997年に巨人に入団した清原だが、その後、成績は下降線を辿る。「どでかいホームランを打ちたい」と肉体改造に固執したものの、体重が増した分、膝が悲鳴を上げた。グリーニーという興奮剤にも手を出した。念願の打撃タイトルには手が届かないまま、4番の座は松井秀喜に奪われた。監督が原辰徳→堀内恒夫と変わるに連れ、チームとの関係も悪化。堀内監督時代には、契約を巡って球団事務所に乗り込むなどのトラブルも起こした。ピアスを付けるなど、外見もいかつく変貌していった。2006年、オリックスに移籍し、2008年に引退した。

 清原は前出の著書で述べている。

「球場を満杯にしたファンから押し寄せられる期待の巨大さは、想像を超えていた」

「(打てないと)垂れ幕でクルマを囲まれ、タイヤを蹴られた。ボンネットやドアを遠慮なく叩かれ、火の点いたタバコをフロントガラスに押し付けられた」

 そして、

「西武時代の11年の黄金期の次に用意されていたのは、イバラの道の12年間だった」

 一方の阪神は、その年5位、翌年は最下位に沈み、吉田監督も退任する。暗黒期は2003年、星野監督が就任2年目で優勝を遂げるまで続いたのだ。

巨人に行ったから…

 阪神を蹴って、巨人に入団という清原の選択は果たして正しかったのだろうか。その答えは誰にもわからない。ただ、生粋の関西人、高校野球での大活躍、そしてドラフトの経緯も合わせれば、清原には甲子園が相応しかったような気もする。

 清原自身、別の自著でいみじくも述べている。

「自分は巨人に行ったから、その後の人生で苦しんだかもしれない、と思った瞬間はあります。覚醒剤の事件を起こした後などは特に頭をよぎりました」(清原和博著『告白』より)

 一方で、

「人生の苦しい時に思い浮かぶのは巨人時代に打ったホームランなんです」(同)

 とも。

 吉田監督は、清原が覚醒剤取締法違反容疑に問われた初公判の際、「週刊朝日」2016年5月27日号のインタビューでこう述べた。

「正直で純朴な青年でした。私の知っている彼からは想像もできない。一から再生していくことを願います。これからの人生は長い」

 もし「清原和博」という稀代のスラッガーがタイガースのユニホームを着ていたら? その問いに答えはない。

 しかし一度は甲子園で巨人や桑田とガチンコ対決する清原を見てみたかった――というのは、野球ファンなら一度は考えてみるところではないだろうか。

小田義天(おだ・ぎてん) スポーツライター

デイリー新潮編集部

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