ウルトラマン“フジ隊員”の華麗なる変身 寂聴さん推薦で芸能界へ、「Q」の衣装は自前…15年間の休業を経た現在は

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15年間の休業

 桜井さんは、32歳頃から約15年間、テレビや映像の世界からフェードアウトしていた。特に引退を宣言したわけでもない。夏休み期間を中心に、全国各地で「ウルトラマン」などが再放送されることも多かったため、露出が全くなくなったわけでもなかった。そのため、テレビ関係者の間でも桜井さんが新たな作品に出演していなかったことに気付いていない向きも多かったという。

 女優業やテレビの世界に戻るきっかけとなったのは、飯島監督だった。1993年に「科学特捜隊のその後を映画に撮る」と言い出したのだ。千束北男名義で脚本家も務める飯島監督について、円谷プロの満田かずほ(のぎへんに斉)プロデューサーからは「ロコ(桜井さんの愛称)が出ないと、『書かない』って言ってるよ」と言われた。

「もはや映像に映ることも忘れていたので、それ以前に知り合いのプロデューサーから『出ない?』と打診されていた情報番組『午後は◯◯おもいッきりテレビ』に出演することを決めたんです」

 飯島監督作品に向けたリハビリでもあったが、残念ながらその作品は没になってしまった。だからといって情報番組を降りるわけにもいかず、出演は続けたものの、女優業やドラマ作品は時間を大幅に制約されることにもなるため、オファーを受けない時期が続いていたという。

海外での熱狂を目の当たりに

 2001年、米ニュージャージー州で開かれた「ASIAN FANTASY FILM EXPO」(AFFE)。円谷英二監督の生誕100周年記念ということでゲストとして呼ばれたが、往復の飛行機はエコノミークラスと条件も悪く、当初は断ろうとも考えていた。だが、円谷監督の下、特技監督を務めた高野宏一さんに「親父(英二監督)の100年なんだから行ってこいよ」と言われて渡米。現地で見たウルトラ作品への熱狂ぶりに「目から鱗が落ちた」という。

「いわゆるチャイルディッシュな熱狂ではなく、高度な質問も飛んできたんです。撮影当時は考えたこともなかったような質問もありました」

 日本が誇る特撮文化を海外の大人たちをはじめとする多くのファンが待望していたのだ。帰国後、この時の体験を飯島監督に話したことが、後に桜井さんをプロデューサー的な仕事へいざなうこととなった。

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