忘れがたき“平成の大乱闘”清原和博VS平沼定晴…自宅の窓ガラスが割られる“二次被害”も発生していた!

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清原はなぜこれほど怒ったのか?

 審判部長の斎田忠利二塁塁審が「暴力行為で清原選手を退場とします」と宣告し、ようやく試合再開となったが、同部長は「バットを投げつけたのは、27年の審判生活でも見たことがない」と証言している。

 平沼も負傷交代の形で井部康二にマウンドを譲ったが、興奮状態のまま、グラブをスタンドに投げつけた。試合後も怒りが収まらない平沼は、西武の選手通用口で清原を待ち伏せするつもりだったが、先輩に止められて断念したという。

 連盟は異例の早さで、その日のうちに清原に制裁金30万円と出場停止2日間のペナルティを科した。連続試合出場記録も「490」でストップ。チームが優勝争いを演じている最中に謹慎することになった清原は「申し訳ないの一言で、チームにもファンにもみんなに迷惑をかけた。カッとして、気がついたらバットを投げていた。その行為に一番心が痛み、反省しています。僕の連続試合なんかより、大事なときに休んで本当に申し訳ない」としょげ返った。

 それでは、清原はなぜこれほどまでに怒ったのか? キーワードとなるのは、左肘だ。

 8月3日のダイエー戦で山内孝徳から左肘に死球を受け、内出血したのが、そもそもの始まり。同19日のロッテ戦でも、吉岡知毅から再度左肘に死球を受け、患部が隆起したように膨れ上がった。さらに9月7日のオリックス戦でも、初回の1打席目に今井雄太朗から左肘に死球。痛みを訴え、3回の打席後にベンチに下がっていた。翌日の釧路遠征では、夜も外出せずに一人宿舎に残り。一晩中患部に冷湿布をあてがっていた。

「あの頃のファンにも『熱いもの』があった」

 この時点でリーグトップの14死球を記録していた清原は、ロッテ戦の前に「今度危ないボールを投げられたり当てられたりしたら、先輩でも後輩でもぶん殴ってやる」と宣言していた。

 実は、平沼も試合前に清原の新聞談話を読んでいたが、「あんな談話なんかでビビったと思われたらいい恥ですから」と立場上逃げるわけにいかず、思い切って内角球で勝負した。それがよりによって、泣きどころの左肘を直撃したのは、皮肉な結果としか言いようがない。

 その後も、騒動の余波は続く。当時は選手名鑑に自宅の住所も掲載されていたことから。平沼の自宅にカミソリ入りの封書が届いたり、自宅の窓ガラスを割る者もいた。

 だが、平沼は「あの頃のファンにも『熱いもの』があったのではないでしょうかね。わざわざ家を探して石を投げつけるなんて、西武や清原を心から愛してのことでしょうね。そう思うと腹も立ちませんでした」とその心情にも理解を示し、「今のファンは、そこまで熱くなりませんよね。思えば選手もファンも冷静になってしまった。僕はその辺がさみしく感じます。もちろん暴力や暴動を肯定するんじゃありませんよ。たんたんとした野球はプロ野球じゃないと思うんですが、違いますか」(『プロ野球乱闘読本』OAK‐MKOOK)と、30年以上前の“熱かった時代”をしみじみ懐古している。

 一方、清原は23年間の現役生活を通じて死球禍に苦しみつづけ、NPB歴代トップの通算196死球を記録。西武入り以来の打撃の師で、“バット投げ事件”の4カ月前に不祥事でコーチを解任されていた土井正博氏は「デッドボールの避け方を教えられなかった」ことを今でも悔やんでいるという。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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