「大変ご迷惑をかけました」ソ連軍「中尉」がミグ25戦闘機で函館に強行着陸 冷戦期の日本を振り回した大胆すぎる亡命劇のてん末

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自衛隊は失地回復の機会をうかがっていた?

 自衛隊は、表向きは「蚊帳の外」に置かれた格好だった。けれども、後年、極秘裡に、事実上の防衛出動というべき「超法規的行動」をとっていたことが、自衛隊関係者からの情報を元にした週刊誌報道などにより暴露された。

「ソ連軍がミグを奪還しにくる」

 海外からのこんな情報が、亡命事件の発生直後に自衛隊を駆けめぐった。ソ連の攻撃を想定し、自衛隊上層部は、高射砲や戦車を函館空港付近に配備したほか、函館の第28普通科連隊に武装待機命令を出した。津軽海峡では、海上自衛隊の艦艇が展開していたというのである。

 事件対応に従事した元自衛官、大小田八尋が平成13年(2001年)に著したノンフィクション『ミグ25事件の真相』には次のようなくだりがある。

「……現地の第二十八連隊長に対し、『ソ連軍ゲリラを撃滅せよ』という口頭命令が与えられたのである。総理の防衛出動命令が出る前だから、三好陸幕長の強い責任感と用意周到からくる、独断専行であった」

 これが事実だとすれば、戦後の文民統制(シビリアンコントロール)の原則から逸脱する行為ということになる。ミグの機体を見失うという失態を演じた上に、強行着陸後も補助的な役割しか果たせず、「張子の虎」「格好ばかり」などと揶揄された自衛隊だが、舞台裏では、虎視眈々と失地回復の機会をうかがっていたといえる。

事件から10年後は「多忙な毎日」

 さて、首尾よくアメリカに逃亡することができたベレンコはその後、どうなったのであろうか。事件から10年後に、日本のマスコミのインタビューに気さくに答え、生活ぶりについて次のように語っている。

「航空機関係の私的なコンサルタント会社で働いています。また、さまざまな政府機関の仕事もしています。非常に多忙な毎日ですね」(「週刊ポスト」昭和61年9月26日号)

 加えて、故国ソ連を「強制収容所」だと非難する一方で、新たに結婚して2人の子供をもうけたことや、旅行で再来日したことも明かしている。どうやらすっかり、自由な生活をエンジョイしているようなのだ。なんだか「やっぱりアメリカの手引だったのでは」と勘ぐりたくもなるが、東西冷戦などとっくに終わった今となってはもう、あまり意味はないだろう。

 このインタビューから5年後の平成3年、ソ連は崩壊した。気の早い向きには「第三次世界大戦でも始まるのか」と、物騒な想像すらさせた亡命事件も、いつしか人々の記憶の彼方に消えていくのだった。

菊地正憲(きくちまさのり)
ジャーナリスト。1965年北海道生まれ。國學院大學文学部卒業。北海道新聞記者を経て、2003年にフリージャーナリストに。徹底した現場取材力で政治・経済から歴史、社会現象まで幅広いジャンルの記事を手がける。著書に『速記者たちの国会秘録』など。

デイリー新潮編集部

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