「大変ご迷惑をかけました」ソ連軍「中尉」がミグ25戦闘機で函館に強行着陸 冷戦期の日本を振り回した大胆すぎる亡命劇のてん末
威嚇するかのように、拳銃を空に向けて一発
着陸したミグの機体からは、モスグリーンの戦闘服に身を包んだ1人の青年が姿を現した。ソ連極東防空軍のエリート兵士、ビクトル・イワノビッチ・ベレンコ中尉である。背が高く、がっちりした体格。地上に降り立ち、近くでカメラを構えた工事作業員の姿を見つけるや否や、威嚇するかのように、拳銃を空に向けて一発ぶっ放した。その作業員は、慌ててフィルムを抜き取って差し出した。
「機体にカバーをかけてくれ」
さらにベレンコは、押っ取り刀で駆けつけた空港職員にそう要望すると、あとはおとなしく従った。
前代未聞の異常事態を知らせる報道は、瞬く間に全世界に伝えられた。日本人の誰もが度肝を抜かれた。東西冷戦下、共産圏最強国の兵士が戦闘機で単身、ずかずかと乗り込んできたのである。北海道の漁船が、北方領土海域でソ連当局に拿捕される事件が続発した時期でもあっただけに、緊張の度合いは一気に高まった。
ミグの機体の管理とベレンコへの事情聴取は、警察が主導。軍事的な事案だとはいっても、交戦権を否定する憲法上の制約により有事法制がなかったことなどから、防衛庁・自衛隊はほとんど関わることができなかった。
「ソ連にはない自由がほしい。アメリカに行きたい」
日本に対し、ベレンコは亡命を申し出た。そして、あっさりと認められて、羽田空港からアメリカに向けて飛び去った。強行着陸から3日後のことである。
“置き土産”ミグ機の扱いが大問題に
国内では、ソ連の秘密警察である国家保安委員会(KGB)、もしくはアメリカの情報機関である中央情報局(CIA)による陰謀説やスパイ説がしきりに流布されたが、本人がいなくなり、真相は闇に葬られた。ソ連では、ベレンコの家族が会見を開き、涙を流しながら帰国を訴えたものの、これも無視された格好となった。
騒動の張本人が日本を去ると、今度は“置き土産”のミグ機の扱いが大問題となる。だが、政府の対応は鈍かった。自衛隊最高指揮官でもある三木武夫首相(当時)は、ベレンコやミグの扱いを宮沢喜一外相(当時)に一任し、前面に出ることはなかった。
折りしも、当時、政界を揺るがせたロッキード事件で、田中角栄元首相が逮捕されてから2カ月後のことでもある。自民党内では、反三木派勢力が、事件追及に熱を上げる三木の退陣を求める「三木おろし」攻撃を展開していた。“平和な”政争に明け暮れ、外交や有事どころではないといった風情であった。
この間、ソ連は日本に対し、軍事機密の宝庫であるミグの返還を執拗に求めてきた。が、結局は自衛隊と米軍の協力体制の下、機体は函館から茨城県の百里基地に移送後、解体されて性能や部品について念入りに調査された。
ただ、ミグの機密については、「CIAが既に把握している」とか、「そもそも性能自体がほかの戦闘機より劣るので価値はない」といった情報も流れた。期待したほどのデータは得られなかったともいわれた。
[2/3ページ]