世耕弘成議員に離党勧告処分 元国会議員の祖父は東条英機に反旗を翻し、孫と真逆のことをやっていた

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 毀誉褒貶という四字熟語がある。「毀」と「貶」が否定を、「誉」と「褒」が評価を意味する。祖父は毀誉褒貶が相半ばする政治家だったが、その孫は今のところ「毀貶」だけのようだ──。誰の話かと言えば、衆議院議員で経済企画庁長官を務めた世耕弘一氏(1893~1965)と、その孫である自民党安倍派の世耕弘成・前参院幹事長(61)の二人だ。

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 世耕弘成氏に自民党は4月4日、党規律規約で2番目に重い「離党勧告」の処分を下した。改めて振り返ってみると、3月14日に開かれた参院政治倫理審査会では「記憶にない」を連発。全国の有権者が怒り心頭に発しただけでなく、身内の自民党からも「呆れた」という声が出た。

 今の世耕氏は政治家としての倫理観はもちろん、国会議員としての器そのものが問われていると言える。そして彼は、祖父と伯父に続く三代目の世襲議員であることはよく知られているだろう。この記事では、祖父である世耕弘一氏の人生と、孫である世耕弘成氏の人生を比較してみたい。率直に言って、孫の情けない姿が鮮明になるからだ。

 祖父の弘一氏は1893(明治26)年、現在の和歌山県新宮市に生まれた。高等小学校を卒業すると経済的な理由から進学を諦め、市内の材木店で丁稚奉公を始めた。その後、東京の材木商社に転職し、苦学して日本大学に進み、法文学部を卒業する。

 1923(大正12)年にドイツへ留学。4年後に帰国すると、日本大学の講師に就任した。家族は学者としての人生が始まると考えていたようだが、弘一氏は1928(昭和3)年に突然、衆議院選挙に出馬することを決断。当時の和歌山2区から立候補した。

反東条の急先鋒

 しかし結果は落選。次の30(昭和5)年の総選挙にも挑んだが雪辱は果たせなかった。ようやく32(昭和7)年2月の衆院選で初当選を果たした。担当記者が言う。

「弘一氏が2月に初当選すると、5月に五・一五事件が発生。36(昭和11)年には二・二六事件が勃発します。日本が軍国主義に塗りつぶされていくのを深く憂慮し、弘一氏は一貫して抵抗の姿勢を示しました。特に1941(昭和16)年、陸軍大将の東条英機(1884~1948)が首相に就任すると、“反東条”の旗幟を鮮明にしたのです」

 1942(昭和17)年の衆院選は「翼賛選挙」の悪名で知られている。戦争の遂行に賛成する候補者は徹底して政府が優遇し、反対する候補者は警察が弾圧した。

「弘一氏は反東条の急先鋒でしたから当然、弾圧されました。支持者が無実の罪で投獄されたり、米や肥料の配給を止められたりと、今では想像もできないほど露骨な選挙妨害が行われた結果、弘一氏は落選してしまいます。ところが日本が敗戦を迎えると評価が逆転し、“ファシズムに抗った気骨ある政治家”として一目置かれるようになったのです」(同・記者)

 弘一氏は1946(昭和21)年の衆院選で国政に復帰。しばらくすると、強烈な存在感を発揮する日がやって来た。戦争末期、軍部は本土決算のため様々な物資を備蓄していた。ところが戦争が終わると、関係者が勝手に備蓄物資を闇市場に放出し、巨利を貪ることが頻発したのだ。

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