名将が率いた優勝チームが暗転…翌年、まさかの最下位に沈んだ球団に何があったのか?

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当時セ・リーグワーストの開幕8連敗

 3月29日に開幕するプロ野球ペナントレース。阪神の2年連続日本一、オリックスの4年連続リーグVなるかが注目されるが、過去には優勝の翌年、まさかの最下位に沈んだチームも存在する。【久保田龍雄/ライター】

 前年の球団創設29年目の初Vと日本一から一気に最下位に転落したのが、1979年のヤクルトである。

 開幕前、ヤクルトは優勝候補の一角に挙げられ、広岡達朗監督も「全員がやるだけのことをやれば、自ずと結果が出る」と自信をのぞかせていた。ところが、4月7日の開幕戦で、田代富雄に3打席連続弾を浴びるなど、大洋に0対9と大敗し、黒星スタート、ここから負の連鎖が始まる。

 4月22日の巨人戦まで1分けを挟んで当時のセ・リーグワーストの開幕8連敗。同24日、阪神に12対1と大勝し、ようやく初白星を挙げたが、4月は3勝10敗1分と大きく出遅れた。

 5月に4連勝を2度記録するなど、勝率5割で3位タイに浮上したのもつかの間、主力の故障や不調などから、5月末から6月前半にかけて2度の4連敗、6月後半から7月初めにかけて1分を挟んで8連敗するなど、前年のチャンピオンチームの面影もなかった。

広岡監督が辞意を表明

 そして、低迷するチームのカンフル剤として、8月に球団が森昌彦ヘッドコーチ(のちに西武監督を務める森祇晶)、植村義信投手コーチの降格を決めると、2人を連れてきた広岡監督も「チームの成績が悪いのは指揮官である私の責任だ」と辞意を表明。同29日、3人揃って退団した。

 この騒動は、日本一達成後、広岡監督がV2実現のため、積極的なトレードを望み、球団の全面バックアップを求めたにもかかわらず、安田猛ら主力の放出に松園尚己オーナーが反対し、トレード話が二転三転したことに端を発していた。

 そのトレードも、守備に難のあるマニエルを放出し、近鉄の左腕・神部年男を獲得したが、移籍後のマニエルが本塁打を量産し、近鉄の前期優勝に貢献したことから、球団内部で「なぜ出した」の声も上がった。もともと広岡監督の「管理野球」とヤクルトの「家族的雰囲気」は相容れないものがあった。チームが勝っているうちは良かったが、開幕から負けつづけたことにより、不協和音が一気に表面化した形だ。

 広岡監督が去ったあとも、ヤクルトは浮上の気配を見せないまま、優勝した広島に19ゲーム差の最下位でシーズンを終えている。

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