「あの人の炎はもう消えかかっている」――鳴らない電話、NYの空を見上げピート・ハミルとの別れを覚悟した

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彼のことを狂おしいほどに好きだと思う

 クリスマスの2日後、彼を送り出してから毎日のように、同じ西71丁目にある「カフェ・ラ・フォルトウナ」で原稿や手紙を書いて過ごした。そこはジョン・レノンがよく訪れたお気に入りの店で、東ヨーロッパの小さなカフェのような雰囲気だった。ジョンと親しかった店主はいかにも気の良さそうな人物で、彼の写真をガラス窓に掲げて偲んでいた。小さな丸テーブルについて、カプチーノを啜りながらピートのことを考えた。

 彼の男らしさ、厚い胸、いつも歌を歌って冗談をいっているこの人ほど一緒にいて楽しい相手はいないだろう。わたしにとってこれほど刺激を与えてくれる人もいなかった。それでいて決して威張らないし、何でも耳を傾けてくれる。

 思えば、3月に初めて会ってから、わたしがニューヨークに住むようになって8月に再会、そして付き合い始めてから5カ月も経っていなかった。まさかピート・ハミルとこんなことになるなんて考えてもいなかった。

 できたら一生、ピートと一緒にいられたらと願う。一緒にいるとあまりにも幸せで満たされてしまう。一緒にいないとすべてが霞んでしまう。彼のことを狂おしいほどに好きだと思う。

 ピートと結婚したらと考える。わたしは「結婚しない女」などと呼ばれていたくらいだったが、40代が近づいてくると、そろそろ考えたほうが良いかなと思うようになっていた。結婚してくれというほど愛してくれる人がいない人生なんて、ちょっと哀しいかな、と感傷的になることもあった。昔からきっと年上の、それもかなり年の離れた人と一緒になるのではないかと思っていた。

 ピートは13歳も上だけれど、ちっとも年の差を感じさせない。それでも、アイルランドへの出発前に会ったときにはすごく疲れていていつものように輝いた瞳をしていなかった。ショボショボした目。この人は年取ったらこんな顔になるのかしら。

鳴らない電話

 新年を迎えても正月らしいことは何もせず、ピートが戻る日を指折り数えて待っていた。それなのに、ついにその日がきても電話1本ない。数日後、ようやく電話口に出ると、週末にはロサンゼルスへ行くという。

 新しく取りかかった映画台本を仕上げるためで、締め切りまでに30日しかないのにその間、ベトナムについての雑誌原稿に追われているという。切羽つまったような声で、「ぼくにはライフがない……」とこぼしていた。

 毎日、マシーンのように仕事するだけで、人生を楽しむ時間も余裕もないということなのだろう。今はわたしの入り込む余地はないといっているのかもしれない。

 忙しいことはよくわかる。一度、書き始めたらすっかり没頭して他のことは考えられないのであろうこともよくわかっている。

 それでも、わたしが週末にロングアイランドの家まで行こうというと、「それは良い考えとはいえない。とにかく、映画台本の仕上げでぼくにはそんな余裕がないんだ。いま、このベトナムの原稿を仕上げるだけで精いっぱいさ」。

 これだけ突っぱねられると、もうこちらから電話するのは止めよう、向こうから電話がかかってくるまで決して電話しないぞ、と心に誓った。このままピートに振り回されてバカみたいに待ち続けていたら、せっかくのニューヨーク生活が惨めに終わるだけ。今はきっと、自分の時間をもつ時なのだと自身にいい聞かせた。

初めて聞いた、弱気な声

 10日後にようやくピートから電話がかかってきた。彼はロサンゼルスのウエストハリウッドにあるキッチン付きのホテルにいて、胃痛でひどく苦しんでいるといってきた。

「カンヅメになって胃の痛みを抱えたまま書いているんだ。背中にも痛みが走る。ホームシックになって、ぼくの家や本が無性に懐かしい……」

 初めて聞く弱気な声だった。

「今週末までに書き終えることができなかったら、日曜日にこっちへ来てくれないか? 空港まで迎えにいくよ」

 数日後、娘から電話が入って、ピートは日曜日に帰ってくることになったという。夜になってロサンゼルスに電話が繋がると、だいぶ元気な声に戻っていた。

「日曜日の便は夜8時50分、ケネディ空港着になるよ」

 一足先にバスでウエストハンプトンまで行って、彼の家で帰りを待っていてくれないか、といってきた。

「眠れない」――暗い表情をしたピート

 ウエストハンプトン・ビーチの家に帰ってきたピートと40日ぶりの再会。あの厚い胸も大きなお腹も優しい目もすべて元のままだった。飛びついてキスするとそれまでの不安や憤りもすべて吹っ飛んでしまった。

「これからはニューライフを始める。約束するよ。1日5時間だけ働く。ほら、よくインタビューで作家がいっているじゃないか。そうだ、フロリダへ行こう。ビーチで太陽を浴びながら、ぼくは小説を書く。君も書く。そうしよう」

 彼はニューライフについて眠るまで話していた。

 夜中に目を覚ますとベッドにいなかったので驚いて見に行ったところ、居間で本を読んでいた。いろいろ考えごとがあって、眠れないという。

 本を置くと深刻な顔つきで、それまでに見たこともないような暗い表情をしていた。本に集中できないと苛立ち、立て続けにタバコを吸っていた。

別れの予感

 それから1カ月、ピートから電話してくることはなかった。こちらから電話しても、食事に出ていると娘が答える。数日後、ミスター・ハミルはボストンに出かけています、と秘書がわたしの留守電にメッセージを残していた。

 わたしは仕事でも追い込まれていた。アシスタントのアメリカ人を3名に増やし、写真担当をニューズウィークのフォト部門から紹介してもらって1名雇い、という具合に支局の規模が大きくなるにつれ、わたしの責任も重くなってきた。

 ニューズウィーク側の日本版担当者との関係も難しかった。彼女が突然激昂しても、なぜ怒っているのかわからないこともしばしば。どう対応して良いものか悩む日が続いた。

 帰宅してがらんとしたアパートにひとりでいると、次から次へと自問を続けてしまう。今やっていることが将来プラスになるのだろうか。わたしのやるべきことは他にあるのではないか。自分のいちばん大切なものを売り渡しているのではないか。ふと、とんでもないところへ来てしまったと思った。日本に留まって次の本を書いていたほうが良かったのかもしれない。初めて後悔した。

 米国社会というのはパートナーと一緒に出かけるのが当たり前なので、ひとりになってパートナーがいないと何もできない。日本にいたときにはどんな飲み会でも打ち上げでもひとりで行くのが当たり前だった。おかしなことに女性という立場で仕事をしていると、日本ではもっとずっと自由だったことを思い出した。

 週末に思い切って電話すると珍しくピートが出て、すぐにコールバックするといったきり、1時間半待ってもかかってこなかった。次の週、同じことがまた起こった。わたしと話しているのに他の電話が入り、コールバックするといったのにかかってこなかった。彼からの電話を待ち、すっぽかされることがいちばん辛かった。

「ピートとはもう終わったんだ」

 久しぶりに早く仕事が終わったので、マディソン街からセントラル・パークを抜けて歩いて帰ることにした。ずいぶん春めいてきた公園を歩きながらニューヨークの空を眺めるうち、連絡がないのなら会わなくても良いと思えてきた。いっそのこと別れてしまおうか。激しく燃えた恋であったけれど、あの人の炎はもう消えかかっている。そのことを冷静に考えないと自分が惨めになるだけ……。

 ピートにはたぶん、次のガールフレンドができたのだろう。わたしという人間はこれだけ傷つき苦しまないと何もわからないのだろうか。
 
 わたしはこの半年間、夢を見ていたことを実感した。ピートとはもう終わったんだ。そう悟って、日本へ帰りたいという衝動が初めてお腹の底から湧き上がってくるようだった。そうだ、日本へ帰ろう。4月になったらしばらく帰国しよう。

(第5回に続く)

『アローン・アゲイン 最愛の夫ピート・ハミルをなくして』より一部抜粋・再編集。

青木冨貴子(アオキ・フキコ)
1948(昭和23)年東京生まれ。作家。1984年渡米し、「ニューズウィーク日本版」ニューヨーク支局長を3年間務める。1987年作家のピート・ハミル氏と結婚。著書に『ライカでグッドバイ――カメラマン沢田教一が撃たれた日』『たまらなく日本人』『ニューヨーカーズ』『目撃 アメリカ崩壊』『731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く―』『昭和天皇とワシントンを結んだ男――「パケナム日記」が語る日本占領』『GHQと戦った女 沢田美喜』など。ニューヨーク在住。

デイリー新潮編集部

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