「戦争に行くのは若者と相場が決まっている」 反骨のジャーナリストが抱えた「怒り」の源は

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75歳、中卒だったピートに授けられた博士号

 高校も出ていないピートが突然、博士号を授与されたのは、75歳のときだった。セント・ジョンズ大学は1870年に設立されたカソリック系の名門で、賞状には「ピート・ハミルの傑出した業績に対して5月15日、この称号を授ける」と記されている。

 この日、ニューヨーク市クイーンズ地区にある大学のキャンパスに招かれたピートは、ほかの卒業生たちと同じ黒いガウンに帽子という出立ちで博士号を受け取ると、彼らの前でスピーチをした。

「私は高校もドロップアウトしたのに、博士号をいただき……」というなり、数百名の大きな拍手が沸き起こった。

 それから約5週間後。母校であるリージス高校へ招かれ、1953年の卒業証書を受け取ることになった。博士号を授与されたのち、晴れて高校の卒業も認められたのである。

 ピートは成績優秀だった。小学校時代の成績表を見ると、最高点の「A」がずらっと並ぶ。とくに英語、美術(線画)、エチケット(行儀)は100点満点。少数の選ばれた生徒だけに与えられる奨学金を得て、ブルックリンから地下鉄で1時間半近くかけてマンハッタンのパーク街東84丁目にあるリージス高校へ通った。

上級生に強烈なパンチを浴びせ…

 リージス高校といえばイエズス会系の名門で、ほとんどの生徒がマンハッタンに住む上位中産階級(アッパーミドルクラス)――つまり、裕福な家庭に育った子弟だった。ブルックリン出身のピートは、そんな異世界に足を踏み入れてさぞかし面食らったことだろう。

「あの日は雨が降っていてずぶ濡れだった……」

 当時のことはあまり思い出したくない様子のピートだったが、時たま、わたしに語ってくれたことがある。

「履き古した革靴の底には結構大きな穴が開いていたんだ。でも、もちろん新しい革靴なんて買えなかったからね。レキシントン街から学校へ着く頃には、靴はすっかりぐしょぐしょ。靴底の穴をふさいであったボール紙は用をなさなくなっていた」

 高校のロッカールームへ着くなりベンチに腰かけ、靴を脱ぐ。穴を塞ぐためにゴミ箱からボール紙を拾い出して穴に当てるためにちぎろうとしていた。

「そこへ3年生がふたりやってきて、僕の靴を笑った。穴の開いた靴を笑ったんだよ!」

 こう話すピートの顔は上気していて、当時の屈辱を噛みしめるかのようだった。

 その日の授業が終わるなり、彼は出口でじっと待ち、嘲笑した上級生のひとりを見つけると強烈なパンチを浴びせたという。相手が血を流して路上に伸びている間に退散し、この事件がリージス高校を退学するきっかけになった。

「とにかく、ぼくはセント・ジョンズ大学の博士号をもらってから、リージス高校の卒業証書を受け取ったんだ」

 これがピートの自慢だった。

「怒りの炎」を燃やし続けた

 頼まれるとイヤといえない性格のピートは、たくさんの講演会に招かれあちこちへ足を運んだ。ほかの仕事でどんなに忙しくしていても、できる限り時間をさこうと最大限の努力をした。

 とにかく話が上手く、よく通る声でジョークを連発して会場を沸かせる。聴衆の多くがシニア世代で、1960年代にピートがニューヨーク・ポスト紙にコラムを書いていた頃からのファンも少なくない。

 靴底に開いた穴をもつピートの気持ちを彼らは深く理解した。靴底に開いた穴を嘲笑う上級生たちへの怒りを共有した。その怒りの根幹には貧しさ以上の何かがあった。差別された者でないと、わからない怒り。「世の中は公正でなくてはならない」という真摯な思い。

 しかし、実際には「公正でないこと」が横行するばかりで、権威が大手をふる。その権威とは、実は尊敬に値するものではないことが明らかになったとピートはいいたかったのだろう。

「戦争に行くのは若者と相場が決まっている……世界のありとあらゆる国で大人たちは若者に他国の若者を殺すことを教えてきた。銃とスローガンを与え、それを正しい道、尊い行いと説いてきた」(1965年12月2日、ニューヨーク・ポスト紙)

 60年代から70年代に書かれたピートのコラムを読み返すと、怒りをぶちまける彼の息遣いまでが伝わってくる。

「政敵マスター・リスト」に名前が載ったのは名誉

「ニクソン大統領を弾劾せよ」

 1970年5月、オハイオ州のケント州立大学で反戦を訴える4人の学生が殺された時にも、ピートははっきりと声を上げた。

 彼のコラムを読んだ副大統領のスピロ・アグニューは「ピート・ハミルの言っていることは理性のかけらもない戯言(イラショナル・レイビングス)」と怒り狂い、70年代中盤にニクソン政権下でつくられ、のちに有名になった「政敵マスター・リスト」にはグレゴリー・ペック、スティーブ・マックイーンなどに並んでピート・ハミルの名前が載った。

「あのリストに入っていたのは名誉だった! 入っていなかったら、ちゃんと発言していなかったも同然だからね」

 のちにわかったことだが、ピートは「ニュージャーナリズム」という言葉を使い始めた先駆者のひとりでもあった。

「プレイボーイのライバル誌として始めたナゲットという雑誌の編集長と話している時、『ニュージャーナリズムという特集をしたらどうだろうか』とぼくが提案したんだ。ゲイ・タリーズとか、トム・ウルフなどを含めて。でも結局、記事にはならなかった。1965年から66年の頃だったと思う」

盟友ボブ・ディランと分かち合ったもの

 ピートはいつだって自ら現場へ足を運んでは、市井の人々の声なき声を一つひとつ丁寧に拾い集め、表情たっぷりに書き入れた。そのコラムを読んで、「ピートはジャーナリズムに文学を取り込んだ」と評したのはアイルランド人作家のコラム・マッキャンだったが、それこそがニュージャーナリズムの始まりだったといえるのだろう。

「血の轍」のライナー・ノーツを改めて読み返してみると、ピートがその詩をどれほど深く理解し、“あの時代を生き延びた声”として捉えていたかがわかる。ボブ・ディランとはプライベートでも親しくつきあっていたというが、ふたりの心に通底していたものもまた、「怒り」だったのではないか……。

 ボブ・ディランやローリングストーンズに並んで、数多のジャズのLPレコードを仕事部屋に置いていたピート。原稿をタイプする、あの機関銃のような音のバックにはいつもチャーリー・パーカーの曲が流れていた。

(第3回に続く)

『アローン・アゲイン 最愛の夫ピート・ハミルをなくして』より一部抜粋・再編集。

青木冨貴子(アオキ・フキコ)
1948(昭和23)年東京生まれ。作家。1984年渡米し、「ニューズウィーク日本版」ニューヨーク支局長を3年間務める。1987年作家のピート・ハミル氏と結婚。著書に『ライカでグッドバイ――カメラマン沢田教一が撃たれた日』『たまらなく日本人』『ニューヨーカーズ』『目撃 アメリカ崩壊』『731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く―』『昭和天皇とワシントンを結んだ男――「パケナム日記」が語る日本占領』『GHQと戦った女 沢田美喜』など。ニューヨーク在住。

デイリー新潮編集部

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