“輝き”は一瞬だった…プロの世界でもがき続けた「元新人王」の苦闘

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“社会人三羽烏”

 プロ野球界には、1年目に新人王を獲得したのに、その後は不振が続き、終わってみれば1年目が最高成績だったという選手も少なくない。故障などさまざまな理由から、2年目以降に力を発揮できなかった男たちをプレイバックしてみよう。【久保田龍雄/野球ライター】

 ルーキーイヤーに当時の日本最速157キロをマークし、新人王と最優秀救援投手に輝きながら、登板過多が災いし、全盛時の球速を取り戻せずに終わったのが、与田剛である。

 NTT東京時代は150キロを超える剛球を武器に、野茂英雄(新日鉄堺→近鉄)、潮崎哲也(松下電器→西武)とともに“社会人三羽烏”と並び称された与田は、1990年にドラフト1位で中日に入団する。

 同年4月7日の開幕戦、大洋戦、5対5の延長11回無死一、三塁のピンチで西本聖をリリーフし、プロ初登板のマウンドに上がった与田は、星野仙一監督も顔負けの熱血ぶりを披露する。

 代打・田代富雄を投ゴロに打ち取り、自ら本塁に送球した直後、アウトのタイミングなのに、三塁走者・清水義之がタックルして捕手・中村武志を押し倒した。ラフプレーに怒りを爆発させた与田は清水に詰め寄り、「この野郎、ウチの大事なキャッチャーに何をするんだ」と啖呵を切った。

 これがきっかけで両軍ナインのもみ合いとなり、デビュー戦でいきなり乱闘を体験も、試合再開後、与田は気迫の投球で横谷彰将、宮里太を連続三振に打ち取り、降雨コールド引き分けに持ち込んだ。

新人王とセーブ王を同時受賞

 以来、星野監督の信頼を得た与田は、4月の18試合中8試合に登板するなど、抑えとしてフル回転。5月頃から肘が張り、肩にも違和感を覚えるようになったが、「今このときを全力で」をモットーに来る日も来る日も投げつづけた。

 そして、8月15日の広島戦で、当時の日本最速157キロを計時。同年は50試合に登板し、4勝5敗31セーブで、現在もセ・リーグでは唯一の新人王とセーブ王の同時受賞の快挙を実現した。

 だが、翌91年は前年の登板過多の影響で背筋痛に悩まされ、0勝3敗2セーブと成績ダウン。筋肉再生のトレーニングに励んだ3年目は、2勝5敗23セーブと持ち直したものの、その後も故障が相次ぎ、1軍登板なしで終わった阪神時代の2000年限りで現役を引退した。

 だが、与田自身は「ぼくはあの1年間があったから、お金では買えない貴重な経験、大きな財産を手に入れることができた。もしあのとき投げていなかったら、もっと長くできたかもしれない。もしあのとき投げなくても、財産ができたかもしれない。でもそれは、誰にもわからないことだ」(自著『消えた剛速球~157キロで駆け抜けた直球人生』KKベストセラーズ)と輝かしき1年目を振り返っている。

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