ラッシャー木村「こんばんは事件」から始まった猪木vsはぐれ国際軍団 最高視聴率26%を記録した名勝負の舞台裏

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80年代のプロレスブームで最も視聴率を取った試合

 2024年は、日本にプロレスが根付いてから70年 のメモリアル・イヤーである。

 1953年に力道山が「日本プロレス」を旗揚げし、その第1戦(力道山、木村政彦vsシャープ兄弟)が行われたのが翌54年であることに由来する。試合はテレビで生中継(午後7時半から1時間半枠。同年2月19日)。しかも、NHKと日本テレビの2局同時放送であった。以降、1980年代にゴールデンタイム枠を外れるまで、テレビとプロレスは極めて密接な関係にあった。

 80年代、最高の高視聴率を稼いだ試合といえば、1983年2月7日におこなわれた、アントニオ猪木vsはぐれ国際軍団(ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇)の、1vs3のハンディキャップマッチである。記録した平均視聴率は、25.9%である。

 当時はテレビの黄金期でもあった。「クイズ面白ゼミナール」(33.1%)、「欽ちゃんのどこまでやるの!」(31.0%)、「クイズダービー」(30.6%)、「ザ・ベストテン」(28.7%)など、平均20%超の人気番組がひしめく中、この試合はその週の17位に「ワールドプロレスリング」(番組名)としてランクイン。プロレス放送としては、現時点で80年代以降で、最高の視聴率となっている。

 この高視聴率の背景には何があったのか?

 きっかけは、1981年8月の「国際プロレス」の崩壊であった。これにより、所属選手たちが新天地を求める中、最終的にラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇の3人は、先述の“はぐれ国際軍団”として、新日本プロレスのマットに上がることになる。木村は海外ではドリー・ファンクJrの持つ当時の最高峰王座、NWA世界ヘビー級王座に3度挑戦したほどの実力者。後年、猪木は、こんな評価をしている。

〈とにかく頑丈で打たれ強い。パワーも坂口征二と遜色なかった〉(「週刊大衆」2021年12月6日号)

 後に盟友となった百田光雄もこう言っていた。

「僕が出会った頃は、木村さんはもう40代半ばだったと思うんですが、ベンチプレスは200kgを上げてましたね」

 そんな強者だった木村だが、出だしで躓くことになる。

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