元公明党委員長・竹入義勝氏死去 田中角栄に日中国交回復を決断させた交渉の全内幕

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「極秘にやるんだ、いいな」

 話は田中内閣成立の翌日、1972年7月8日に遡る。竹入氏と並ぶ、国交回復のキーマンだった外務省の橋本恕・アジア局中国課長は大平外相の要請で面談している。

〈大平は秘書官を外して、橋本と2人きりになった後に切り出した。

「昨日、田中さんと政策協定をして、日中国交正常化をやると決めた。橋本中国課長は、今後予想されうる手順や手続きを踏まえ、ただちに所要の準備に取り掛かってほしい」

 そして念を押すようにこうも付け加えた。

「ただし、この件は次官の耳にも入れるな。極秘にやるんだ、いいな」

 当時の外務事務次官の法眼晋作は、親台湾派で中国との関係改善に慎重だった。〉

 大平は外務省内に反中国派が多いことを知っていた。また、親台湾派の国会議員が日中国交回復に明確に反対し、国会でも議論が紛糾していた。ここで田中内閣が国交回復を画策していることが漏れると、倒閣運動に利用されかねないと懸念していたという。記事の中で、橋本氏はこう語っている。

〈「なにしろ国交のない国ですから、内情を探るにはあらゆる手を打たねばなりません。北京放送(新華社)と人民日報から流される情報も丹念に精査し、検証するのですが、日本に対する報道は、日米安保条約反対、日本は中国を敵視している、日華平和条約は認めない、よって賠償を要求する権利を留保する、というものでした。(田中内閣の前の)佐藤さんも中国との国交回復を視野に入れていました。しかし一番のネックである“台湾の国民政府との関係をどうするのか”という問題に突き当たると、“しばらく様子を見ることにするか”となってしまうのです。佐藤さんがそうであったように、田中さんが本気で中国問題に取り組む気でいても、いざ交渉を進めると必ず国民政府の問題で壁にブチ当たる(略)」〉

 日米安保条約の破棄、日台関係の断交、賠償請求権ありが前提条件では、とても交渉に臨むことはできない。竹入氏が田中邸を訪問した際、田中首相が素っ気ない対応を取ったのは、こうした状況下にあったからだった。

 竹入氏が大久保直彦副書記長、正木良明政審会長らと北京に入ったのは、田中邸訪問から2日後の1972年7月25日。訪中団は、田中首相のお墨付きをもらった特使ではない。

〈しかし竹入は、国交正常化交渉に臨むに当たって、どんな条件なら田中は飲めるか考え抜いて、事前に用意していた十数項目にわたる要望を率直に周恩来(首相)に伝えたのだった。その中には、日米安保条約は堅持する、台湾との関係は急には遮断できない、という2点が含まれていた。〉

 人民大会堂の広間で27日から始まった会談で、周恩来の口から発せられた言葉に竹入氏は衝撃を受けた。

〈「毛(沢東)主席は賠償請求権を放棄すると言っています。賠償を求めれば日本人に負担がかかります。そのことは中国人民が身をもって知っています。(略)賠償の請求権を放棄するということを共同声明に書いてもよいと思います」〉

 そして最後の会談では、毛沢東主席の批准を受けた“中国の考え方”として、8項目の共同声明の草案を周恩来が提起した。そこには日米安保には触れず、「中華人民共和国政府を中国を代表する唯一の合法政府として承認すること」以外、最大の懸念だった台湾との関係については触れていなかった。

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