俳優生活60年「前田吟」の告白 実母に二度捨てられた孤独な幼少期、自分で飼った鶏の卵を1個7円で売っていた極貧生活とは

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天涯孤独の身になって

 そんな少年時代の楽しみはラジオだった。ラジオドラマや浪花節などに聞き入り、ものまねで級友たちを楽しませた。浪花節語りのような声になり、合唱の時に外されることもあったというが、映画のストーリーを自分で考え、それを実演しては喜ばれていた。人前で何かをやることに抵抗はなく、この頃「将来は役者になりたい」という思いを持ったという。

「養父が亡くなるまでの1ヶ月間、病院の病室で一緒に寝泊まりして面倒を見ました。人間の身体が蝕まれていく過程を目の当たりにしながら、最後まで面倒を見ました。この時の経験かもしれないけれど、いまだに人の葬式では泣きません。死は当然というか、悲劇を見過ぎたのかな…。芝居ではいくらでも泣けますけどね」

 天涯孤独になった。なんとか中学まで卒業できるようにと、養父の仕事仲間がカンパしてくれたお金を持って養父の実妹の家に引き取られた。だが、この実妹は大の競輪好き。カンパのお金をあっという間に使い果たしてしまい、3か月後にはその実妹の息子の元へ。

「この人が面白い人でね。サラリーマンなんだけど、山のふもとに自分で家を建てて、開墾して水を引いて、ガスはプロパン。あとはランプで生活していた。そこに預けられたんです。この頃、防府天満宮に行って占い師をしている人に言われたんです『あなたはとにかく芸能の仕事をしなさい。歌手でも落語家でも俳優でも、とにかく芸能の仕事をしなさい。絶対に食いはぐれないから』と」

 ランプ生活をしながら勉強を頑張った。次第に成績がよくなり、クラスで1番になる。周囲が、高校、大学へ進学したほうがいいと進言し、実母を探して話をしてくれた。結果、娘と二人で住んでいる実母の実姉の家に居候して、山口県立防府高校に合格する。

「ところが、高校の学費は出すと言っていた実母が、まったくお金を出してくれなくて。革靴も買ってもらえないし、中学の制服やカバンで通っていました。さすがに恥ずかしくてね。それに、実姉宅での生活も年ごろの娘さんもいるし、僕も気をつかうばかりで…。幼少の頃からお金がないので、嫌な思いをしているでしょう。だから、そこまでして学校に行かなきゃいけないのかという思いになって、高校は辞めてしまったんです。それで大阪の家具問屋さんに住み込みで働くことしにて、故郷を出ました」

 この時、実母から「悪くなってヤクザになって帰ってくるようなことがないように。皆に迷惑がかかるから」と言って送り出されたそうだが、

「あー、自分は捨てられた。それも、これで二回、母に捨てられたんだと思いました。家具屋さんでは月に1500円くらいの小遣いがもらえて。ラーメン1杯が35円、素うどんが27円くらいだったかな。腹を空かせていたし、貯金はできなかった」

 住み込みで辛かったことは、例えば食事の時「お代わりする?」と聞かれて「はい」と答えてはいけないことを知った時だったという。出されたもので満足しないといけない。だから聞かれたら「あ、頂きました」と言って食器を片付ける。勿論、好き嫌いなど言えない。人間観察ではないが、自分の置かれた境遇と周囲の人間の言動を冷静に見ていたという。

「あと辛かったのは、子どもの時から一貫して、風呂のある家に住んだことがないんですよ。いつも、お風呂は他人の家でね。あんまり湯を使えないし、あがるときも垢が浮いていないか何度も確認して。大阪では銭湯に行って、のんびり入れる ようになった。これは嬉しかったね」

 1年が経った頃、よく読んでいた雑誌に関西芸術座の俳優募集の広告があった。俳優への夢が頭をもたげ、願書を出して連絡葉書が届いたことで、家具屋に見つかってしまう。家具屋をやる気がないのなら、とすぐに山口に返されてしまった。

「でも、すぐに大阪にトンボ帰りしました。新聞配達の仕事を決めていましたからね。早朝から新聞を配って、夜は俳優養成所に通って。ここで、新国劇の創立者の一人でもある倉橋仙太郎先生に可愛がってもらったんです。ここで僕は絶対に俳優になると決めました。とにかく、この時期は面白かった。結婚式場でバイトして、空いた時間には映画を観て。大阪弁もこの時期にマスターしましたよ。倉橋先生に感謝しているのは、先生の勧めでこの時期に、通信教育で高校卒業の資格をとったことです。これがないと、次の俳優座も入れなかったかもしれませんから」

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