鶴岡八幡宮も太宰府天満宮もかつてはお寺だった… 人気の初詣スポットが受けていたおぞましい破壊

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1000年の歴史と文化財を破壊した明治政府

 鶴岡八幡宮のケースが特殊なのではない。たとえば、京都有数の観光名所であり、初詣で賑わうのはもちろん、祇園祭でも知られる八坂神社(京都市東山区)は、明治維新以前は祇園社、または感神院などと呼ばれていた。

 はじまりは観慶寺という仏教寺院で、狭義には、境内にあった天神堂が前身だという。そこに祀られた天神が、牛の頭を頭頂に戴く陰陽道系の神、牛頭天王と同一視され、維新を迎えるまで牛頭天王が祭神だった。牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神で、新羅の牛頭山を経由して京都に至った、ということだった。また、江戸時代までは薬師堂や大日如来像を安置する大塔、鐘同など、仏教系の堂塔が建ち並んでいたという。

 ところが、「祇園」とはインドにおける仏教の聖地の名で、神社がそれを社名にすべきではないという話になり、八坂神社と改名。仏教の聖地を守護する牛頭天王が祭神なのも望ましくないとされ、祭神は素戔嗚尊 に改められた。また、仏教系の堂塔は破壊され、仏具は処分され、仏像などはほかの寺に引きとられていった。

 このように、現在は仏教色がまったく感じられない神社も、江戸時代までは「鶴岡八幡宮寺」や「祇園社」のように、半ば仏教寺院のような様相である場合が多かった。ところが、明治政府がカミとホトケを強引に切り離したのである。

 明治維新を迎えるまで、日本では平安時代以来1000年もの長きにわたって、日本固有の神と大陸から伝えられた仏教が、一体のものとして信仰されてきた。これを神仏習合(神仏混淆)と呼び、ホトケが衆生を救うためにカミの姿に化身して日本に現れた、とする本地垂迹説が、その理論的支柱となっていた。だから、江戸時代までは神社の境内に神宮寺が置かれ、または仏教の堂塔が建ち並び、神前で読経が行われるのは、ごく当たり前だった。

 ところが、明治政府にとっては、こうした神仏習合は不都合だった。新政府は天皇による親政を建前とし、古事記や日本書紀の神話につながる神道を政権の基軸にしようとした。そのためには、国家の基軸とすべき神道が外来の仏教と一体化している状況はまずいので、強引に切り離そうとした。

 そこで、江戸城が無血開城する直前の慶応4年(1868)3月28日、新政府は神仏分離令(神仏判然令)を発し、神社から仏教色を排除することや、神社に仕える仏教系の僧侶の復飾(還俗)を命じた。これを受け、鶴岡八幡宮寺は鶴岡八幡宮に、祇園社は八坂神社になったのだ。

 また、神仏分離令は全国で拡大解釈され、各地で寺院や仏像、仏具などを破壊する廃仏毀釈が巻き起こった。極端な地域の例をあげると、たとえば薩摩藩(鹿児島県)では、藩内にあった1066の寺院がすべて消滅し、2964人の僧侶がすべて還俗させられてしまった。

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