視聴率は歴代ワースト2…「どうする家康」に視聴者が最後まで感じた違和感の正体

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「違和感を拭えないことが多かった」「途中から見るのをやめた」といった声が、私のもとに届けられる機会が多かった。2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」。実際、全48回の平均世帯視聴率は11.2%と、歴代の大河ドラマのワースト2を記録した。テレビの視聴の仕方が多様化した昨今、視聴者数は視聴率だけでは測れないが、視聴者の関心が高いと思われる時代と人物が描かれたことを考えると、さみしい数字だといわざるをえない。

「違和感」の所在を、私は大別して、以下に集約している。登場人物のキャラクターを単純明快にしすぎたこと。女性の活躍という現代社会における課題を、過去において実現済みのように描いたこと。そして、お涙ちょうだいのメロドラマを優先して歴史のダイナミズムを軽視したこと。その3点である。

 こう書くと、「ドラマはドラマであり、史実との違いを指摘するのはナンセンスだ」というお叱りをいただく。それはある意味、もっともな意見である。たとえばシェイクスピアの戯曲に対し、「史実と異なる」と指摘するなどナンセンス極まりない。

 だが、NHK大河ドラマは微妙な立ち位置にいる。描かれた話を概ね史実と受けとる視聴者が多く、子供が歴史に興味をもつきっかけになることも多い。NHK自身、フィクションであるとは認めず、歴史学者に時代考証をさせている。ドラマとして楽しめればいい、という人を否定するつもりはないが、大河ドラマに「歴史」を期待する人が少なくない以上、「違和感」の正体を明らかにしておくことにも意味があるだろう。

正義感、バカ殿、主人物――単純化のツケ

 最初に、人物が単純明快に描かれすぎた点について。

 たとえば、北近江(滋賀県北部)の若き武将で、織田信長(岡田准一)の妹の市(北川景子)を娶りながら、信長を裏切った浅井長政(大貫勇輔)は、「誠実な好青年」として描かれた。誠実ゆえに覇道を突き進む信長に不信感を募らせ、悩み抜いた末、自分が信じる「正義」を優先したという筋である。

 だが、長政には「正義」というきれいごと以前に、義兄を裏切る合理的動機があった。浅井氏は織田氏と同盟関係を結ぶと同時に、越前(福井県)の朝倉氏にも従属していたが、織田氏が朝倉氏を攻めた以上、どちらかを切り捨てざるをえなくなった。そこで求められるのは、自身の領国の存立にとってどちらにつくのが有利か、という冷徹な判断で、「正義」を優先する余地などない。ところが、長政の「義」を強調しすぎた結果、話が単純化され、戦国大名にとっての本質的な悩みが見えなくなってしまった。

 室町幕府最後の将軍、足利義昭(古田新太)は、思いきり愚鈍な「バカ殿」として描かれた。上洛した徳川家康(松本潤)と対面した際も、二日酔いなのかゲップをしながら千鳥足で現れ、話しながら居眠りをはじめた。その後、足利将軍を傀儡にして天下をわがものにしたい信長には、神輿は軽いほうがいい、という旨を家康の重臣が語り、義昭が「バカ殿」として描かれた理由はわかった。だが、それは近年の研究成果に反する。

 義昭は信長の助けを借りながらも、自身が主導して上洛し、その後も、京都やその周辺では争いを裁定し、軍事面でもみずから武将を配置するなど、天下(当時は京都を中心とする五畿内を天下と呼んだ)を直接管轄した。信長はのちに義昭と対立するが、当初は義昭に供奉して天下の再興に協力するという姿勢であり、軽い神輿として担がれた「バカ殿」という設定では、歴史描写が浅くなってしまう。

 また、明智光秀(酒向芳)は信長には媚びる一方、ライバルの揚げ足はとる「小人物」に描かれた。謀反を起こしそうな人物という設定なのかもしれないが、信長のように人を見る目が厳しい上司のもとで、こんな小人物がナンバー2に上り詰めるはずがない。

「コンフィデンスマンJP」のように、架空の詐欺師集団の物語なら、キャラクターを単純明快に描く演劇的効果も期待できるだろう。だが、「どうする家康」に登場するのは、一歩間違えば一族や領民もろとも滅びかねない戦国時代に、一定以上勝ちあがってきた人物ばかり。一筋縄ではいかない曲者ばかりだと考えられる。枠にはめ込んだ時点で、ドラマのスケール自体が矮小化されてしまう。

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