【淡谷のり子の生き方】軍歌と演歌は嫌い、美空ひばりは大嫌い、北島三郎は好きだったらしい…ブルースの女王の根幹に“ジョッパリ精神”

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 ものまね番組の審査員として下品な芸風には厳しい姿勢で臨む一方、努力を重ねる芸人には優しい眼差しを向けていた芸能界の大御所・淡谷のり子さん(1907~1999)。「ブルースの女王」として長く第一線で歌い続けたその根幹には、出身地にちなんだ「ジョッパリ精神」がありました。朝日新聞編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。偉大な歌手の知られざる人生に迫ります。

「これは私の戦闘服」

 幾度か襲った危機的状況を出身地・津軽の「ジョッパリ(強情っ張り)」精神ではねのけ、己の生き方を曲げなかった。「ブルースの女王」として人気を集め、60年以上にわたって歌謡界で活躍した歌手・淡谷のり子(本名・淡谷のり)である。

 そのジョッパリぶりを最初に発揮したのは戦時中だった。濃い口紅に高いヒール、派手なロングドレス。東京・銀座を歩いているところを咎められた。

「いまは日本国民が皆一致団結し、戦地の兵隊さんを応援するときです。それをあなたは、そんな姿で、前線の皇軍将兵の皆さんに顔向けできますか?」

 NHKの朝の連続テレビ小説「ブギウギ」で、淡谷がモデルとなった茨田りつ子に愛国会のメンバーが抗議する場面があったが、たぶんそんな感じだったのだろう。

 このとき淡谷は、

「これはあたしの戦闘服。丸腰では戦えません。兵隊さんが鉄かぶとをかぶるように、歌手の化粧はぜいたくではありません」

 と見事に啖呵を切って反論したと言われている。おしゃれには惜しまず金を費やした歌手人生。その額は生涯で8億円を超えたそうで ある。マニキュアも、西洋風の濃いメーキャップも、毛皮を着たのも、芸能界では淡谷が初めてだったらしい。一方で、当局からは始末書も書かされた。

「カカトの高いハイヒールはいけない、ツメにエナメルはいけない、ハデな舞台衣装はいけないというから私はつっかかるのよ。いつ死ぬかわからない兵隊さんの前で汚いステージはできないってね。反抗するから始末書なの」(朝日新聞:1990年3月2日夕刊)

 戦地での慰問公演でも、ジョッパリ精神を発揮した。「退廃的だ」と歌唱を禁じられることもあったヒット曲「別れのブルース」(1937年)、「雨のブルース」(38年)のほか、外国曲も臆することなく堂々と歌った。

 津軽地方には「ジョッパリ以上の強情っ張り」という意味で「カラキズ」という言葉もあるが、どんな状況に置かれても自分の信念を貫いた点では、カラキズという表現のほうが似合うかもしれない。

 そうそう、「大の演歌嫌い」だったことも挙げないわけにはいかない。「あんなめめしい歌、誰が聴くんですか」などと、ことあるごとに文句をつけている。「あんなケチくさい歌、みんなロープで縛って油かけて燃やしたい」と、驚くべき発言もしている。

 軍歌にも徹底して嫌悪感を抱き続けた。

「きくと悲しくなるの。戦争の悲惨さを知らないから歌えるのよ。戦争中に九州の特攻基地を慰問したのよ。白ハチマキの16歳ぐらいの少年特攻隊員が20~30人私の歌を聞いてくれたの。歌っている途中、私にニコニコ笑って礼をして、片道燃料で飛び立っていくの。私は歌の途中で涙がでて歌えなくなったの。なんて残酷なって……。若い人を死に追いやる軍歌は絶対に歌わないって思ったわ」(同前)

 そんな淡谷にとって、国民服やモンペを着たまま舞台に上がり、生きる喜びを歌うブルースを歌うなんて、とうていできなかったに違いない。

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