28歳で引退した阪神の「ミスター・ヘッドスライディング」…野球人生の絶頂期を太く短く駆け抜けた“伝説のヒーロー”たち

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5年で98勝を挙げた東映の“怪童”

 プロ野球界には活躍期間は短かったものの、ファンの間で長く語り継がれる“伝説のヒーロー”が何人も存在する。野球人生の絶頂期を太く短く、一陣の風のように駆け抜けていった男たちをプレイバックしてみよう。【久保田龍雄/ライター】

 17歳でプロ入りし、最初の5年間で98勝を挙げたのが、東映の“怪童”尾崎行雄である。

 浪商(現・大体大浪商)2年時の1961年夏の甲子園で優勝投手になった尾崎は、11月にプロ入りを前提に中退届を提出。巨人をはじめ、阪神や南海、大毎、阪急、東映の“札束合戦”の末、今なら数億円に相当する契約金3000万円を提示した東映への入団が決まる。

 東映を選んだのは、浪商の先輩・張本勲、山本八郎がいたことや高校時代のライバルで、法政二から巨人入りした柴田勲(当時は投手)と日本シリーズで戦いたいなどの理由からだった。

 翌62年4月8日の大毎戦、3対3で迎えた延長10回にリリーフとしてプロデビューのマウンドに上がった尾崎は、“ミサイル打線”を相手に、球史に残る快投を演じる。先頭の葛城隆雄を投ゴロに打ち取ったあと、榎本喜八、山内一弘の3、4番を連続三振。全15球すべて直球だった。その裏、東映はサヨナラ勝ちを収め、尾崎は初登板初勝利を手にした。

「今の選手は恵まれてるよね」

 実は、山内は開幕直前のスポーツ紙で「尾崎の球がいくら速いといっても、高校出の少年だろう。たいしたことないよ」とコメントしていた。記事を読んだ尾崎は「よーし、この人だけは絶対に打たれちゃいかん」と闘志を燃やした。

「こっちは、こと根性に関しては、浪商で鍛えられているからね。山内さんであろうが、葛城さんだろうが、たとえONだろうが、人間対人間じゃないかと思って投げたな、僕は」(週刊ベースボール1980年4月21日号)。

“打撃の職人”山内も「ボールが途中から消えた」と脱帽するほどの剛速球を武器に、1年目に20勝を挙げ、史上最年少の18歳で新人王に輝いた尾崎は、64年から3年連続20勝以上を記録し、65年にはリーグ最多の27勝を挙げた。

 だが、67年夏に肩を痛めてから勝てなくなり、73年を最後に29歳で引退。通算成績は107勝83敗、防御率2.70だった。

 引退後の2001年、マスターズリーグの東京ドリームスに参加。試合前の西武ドームで練習を終えたかつての怪童が、たまたま目の前にいた筆者に「今の選手は(環境的に)恵まれてるよね」と話しかけて、通り過ぎていった姿を鮮明に覚えている。

野村監督が詫びた“スライダーの名手”

 入団1年目に高速スライダーを武器にシーズン前半で7勝を挙げながら、その後は故障に泣いたのが、ヤクルト・伊藤智仁である。

 1993年、ドラ1ルーキーの伊藤は、4月20日の阪神戦でプロ初勝利を挙げると、6月3日の阪神戦でプロ初完封の4勝目。同9日の巨人戦では、セ・リーグタイの16奪三振の快挙を達成した。

 だが、0対0の9回2死、篠塚和典に右越えソロを浴び、無念のサヨナラ負け。「篠塚さんはそれほどホームランを注意しなくていいから、自分のリズムで攻めていけば何とかなると思っていたのに、すっぽ抜けて甘く入った球を打たれて……。チームが優勝争いをしているときに、気が抜けた球を放った自分に腹が立った」と悔し涙を流した。

 この巨人戦も含めて、伊藤が投げる試合でヤクルト打線はなぜか点が取れず、6勝目を挙げた6月22日の広島戦も1対0の辛勝。中4日で先発した同27日の阪神戦では、延長13回を1失点の力投も報われず、引き分けた。

 そして、7月4日の巨人戦も、0対0の9回2死からハウエルのサヨナラソロが飛び出し、やっとの思いで7勝目を挙げた。だが、酷使の影響からか、9回に右肘を痛め、登録抹消。同年は7勝2敗、防御率0.91で新人王を獲得したが、その後、肩も痛め、2年半もの長期離脱となった。

 1997年、リリーフとして復活した伊藤は、7勝19セーブを挙げ、チームの日本一に貢献、カムバック賞も手にした。しかし、99年に2度目の肩の手術を受けるなど、苦闘の日々が続き、2年連続1軍登板なしで終わった2003年限りで現役引退。退任後の野村克也監督が「(酷使で)彼の選手生命を縮めてしまった。申し訳なく思っている」と詫びた話もよく知られている。

「好きな野球を嫌いになりそうだったので」

 果敢なヘッドスライディングとスピード感溢れる外野守備で、ファンに強烈なインパクトを与えたのが、阪神・亀山努である。

 ドラフト外入団から努力を重ね、1軍に這い上がってきた亀山は、5年目の1992年、打率.287、4本塁打、28打点、15盗塁を記録し、ゴールデングラブ賞も受賞。3年目の新庄剛志とともに“亀新コンビ”としてブレイクし、過去5年間で最下位4度のチームを優勝争いに導く牽引役になった。

「野球が好き」が原点だという亀山は同年夏、筆者の取材に対し、次のように語っている。

「僕はもともと好きで野球を始めた人間です。自分のように力も素質もない者が、(プロの世界で)好きな野球をここまでやれれば十分だと思っています。今やっとプロでやっていけるものを掴みつつあるので、これからも自分らしい“ひた向きな野球”をやっていくつもりです」

 だが、全力プレーは、常にケガと隣り合わせだ。翌93年6月にダイビングキャッチで右肩を脱臼。95年の開幕直後にも一塁手のグレンと激突し、腰椎骨折の重傷を負った。さらに、両足アキレス腱痛や睡眠時無呼吸症候群にも悩まされ、最後の2年間はほとんど出場機会のないまま、97年に28歳の若さで引退した。

「正直言って、まだ現役でいける自信はありました。でも、これ以上野球を続けると、好きな野球を嫌いになりそうだったので、スパッと辞める決心をしたんです」(週刊宝石1998年4月9日号)。

“ミスター・ヘッドスライディング”は最後まで原点に忠実だった。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部

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