朝ドラ「ブギウギ」ヒロイン・福来スズ子を演じる「趣里」が生まれた日

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 華やかなステージシーンでスタートした「ブギウギ」。初回視聴率は前回放送の「らんまん」を上回ったという(ビデオリサーチ社調べ)。

 ヒロインの花田鈴子(のち福来スズ子)役・趣里の軽快なダンスもそのはず、バレエ留学をし、プロを目指したこともあったという。

 2011年デビューの実力派女優の両親は、実は国民的ドラマ「相棒」の杉下右京を演じる水谷豊とキャンディーズで一世を風靡した女優・伊藤蘭だ。

 趣里が生まれた日の感動、幼少の頃の様子、そして「こちら(芸能界)には来てほしくなかった」という父としての心情を、『水谷豊 自伝』から紹介する。

娘の誕生

 親友(松田優作)の死に打ちのめされた水谷だったが、翌1990年の秋には、大きな喜びに包まれた。長女が誕生して、家族が増えたのだ。

「誕生日が優作ちゃんと同じ9月21日でね。偶然だろうけど、あれはビックリした」

 伊藤の陣痛が始まったとき、水谷はテレビ朝日系列の『ザ・刑事』(90年)の収録中だった。架空の六本木警察署が舞台のドラマで、水谷は矢島慎吾という捜査一係の刑事を演じている。共演は丹波哲郎、片岡鶴太郎、江口洋介、榊原郁恵らで、23回にわたって放映された。

「ディレクターに頼んで収録を抜け出し、病院に駆けつけました。僕はもうそこにいるだけが精一杯で、蘭さんに声も掛けられなかった」

 陣痛は約8時間続き、水谷はその間、妻の手を握り締めて見守った。

「娘が生まれる瞬間は、身体が金縛りになったような状態で、固まっていました」

 自然分娩の出産に立ち合い、生まれたばかりの娘を抱き上げたとき、水谷はこれまでに経験したことのない感情を味わったという。

「まさに授かりものだと思いましたね。しばらくは躁状態でした」

 そのときの感動を週刊誌の取材でも語っている。

〈女性のすごさを、目の当たりにして、無条件で尊敬するっていうか、これだけすごいことができる女性って存在感に圧倒されたんです。いやね、オーバーじゃなく、人生観、変わっちゃいましたよ〉(『女性セブン』2000年2月10日号)

 伊藤もまた、出産後に週刊誌の取材に応じて、喜びを語った。

〈『ホヘーッ』という小さな産声でしたけど、顔を見たら、すごく可愛くて……(中略)。母親の実感と言われても、まだピンとこなくて……。それより、出産の大変さは想像を絶するものがありましたね。(水谷が側に付き添ってくれたことには)でも私、夢中でしたので、あんまり覚えていないんですよ(笑)。でも、ずいぶん励ましてくれて感謝しています(中略)。(水谷が最初に娘を抱いたときは)変に上手で(笑)、はじめっからこわがりもせずに、きちんと抱いていましたね。きのう、オシメの練習をしてました。上手ですよ(中略)。自分が将来、結婚も、出産もしないだろうと思っていましたので、遅かったけれど、この日が迎えられてすごく幸せです(中略)。月並みですけど、人の気持ちのよく分かる、思いやりあるやさしい女の子に育ってほしいです〉(『週刊明星』1990年10月18日号)

 娘の名前は、水谷が「趣きのある世界が好き」なので、「趣という漢字を使う」と決めていた。名付けを終えなければ、出生届が出せないのだが。

「だけど、どんな文字と組み合わせて名前にするか、なかなか決まらなくて。もう諦めて別な名前を考えようかと思っていたら、ある日、テーブルにメモが置かれていたんですよ。蘭さんが書いたもので、趣の下に里を付けると趣里という名前になる、と教えてくれた。だから、趣里の名前は彼女と二人で考えたんです」

 戸籍に娘の名前が記載された頃だ。違う世界が見つかったら、いつでも俳優を辞めようと思っていた水谷が、できるだけ長く俳優を続けようと思ったのは。

「娘が生まれて、自然にそういう気持ちになったんですよ。自分が選ぶというより、オファーがあってこその仕事だから、一生やるとまでは言い切れないけどね」

 36歳で再婚。38歳で父親になった水谷は、これまでの人生で何かを意図的に変えようと思ったことはないと言う。

「僕は変わる努力はしないんです。むしろ、変わらないものを持ち続けている方が大事かな。本当に必要なら、自然に変わりますよ」

趣里との時間

 趣里が生まれてから9年近く、水谷はマスコミとの接触を減らし、一方で単発のドラマ出演を増やしている。

「94年に『聖夜の逃亡者』に出演することになって、台本を読んだときには胸に迫りました。主人公と僕自身の生活に重なる部分があったからです」

『聖夜の逃亡者』は94年12月24日、テレビ朝日系列の『土曜ワイド劇場クリスマススペシャル』の単発ドラマとして放映された。サブタイトルは「まだ見ぬわが娘を救え! サンタになれない父の最後の賭け」で、吉川一義監督と組んだ作品である。

 水谷が演じたのは元タクシー運転手の岩野辰雄。6年前、岩野は酔って乗り逃げしようとした客とトラブルになり、誤って殺してしまう。服役することになった岩野は妊娠中の妻・恵理(かとうかずこ)と離婚。その後、恵理は岩野との娘であるミチルを連れて再婚した。

「この作品が思い出深いのは、趣里が幼稚園に入園した年に撮影、放映されたことです」

 恵理の再婚相手は財閥の御曹司、菱川(篠塚勝)だった。服役中の岩野は、ミチルを誘拐し、金を奪おうと企てている者がいることを知り、心をかき乱される。そして、あと1週間で釈放されるという日に脱走する。娘の無事を確かめずにはいられなかったのだ。

「ミチルと趣里の年齢が近い設定だったこともあり、父親の気持ちがそのまま自分に重なって、自然に溢れ出てきました。どうしても娘に会いたくて脱獄する父親の心情が描かれた信本敬子さんの脚本に、胸が熱くなったのを覚えています」

 紆余曲折を経て、岩野はミチルを救い出し、束の間の父娘の時間を過ごす。だが、犯罪者である岩野は、ミチルに自分が父親だと名乗ることはできない。ラストシーン近くで、サンタクロースの姿をした岩野がミチルをおんぶして歩く姿は切なく、視聴者の涙を誘った。

「その頃は、あまり仕事をしていない時期だったので、ほぼ毎日、娘を幼稚園に送っていきました。父兄の中で、僕以上に子供を幼稚園に送り届けた父親はいなかったと思います」

 娘の送迎には自転車を使った。当時の水谷の様子を、伊藤はこう語っている。

〈その辺りに関しては、主人は柔軟性があるんです。まだ娘が小さかった頃、普通の仕事をしているお父さんより時間に余裕があったりするので、ときにはママ友の会に参加したりとか。(中略)何気なく家に上がり込んでお茶したりするんです(中略)。楽しかったみたいです。ママの中に入って会話するのが(中略)。だから、主人に対してストレスはないんです。何かやってほしいことがあれば、すぐにやってくれる。キッチンには立ち入らないんですが、それ以外はなんでも〉(『週刊文春WOMAN』2019年8月30日号)

 伊藤は出産後、女優に復帰し、テレビ朝日系列の『土曜ワイド劇場』や、日本テレビ系列の『火曜サスペンス劇場』などを中心に仕事をしていた。水谷は、食後の皿洗いや、風呂掃除、ゴミ出しなどの家事を手伝っていたという。

〈あれ、いいものですよ。お皿がピッカピカになると、なんだか得をしたような気になっちゃって(笑)。それから、ときどき家の掃除も、ぼくがやります〉(前掲『女性セブン』)

 慈しんで育ててきた趣里が5歳になった頃だった。

「当時、娘の中で、どんなことでも大きさとか長さで表現することが流行っていたんですよ。気持ちの大きさもね。それで、娘が『ママのことが好きだ』と言うから、蘭さんが『どのくらい好きなの』と尋ねたら、『雲の上の神様まで好き』だと。すごいことを言うな、と思って、僕は『じゃあ、ダダ(パパ)のことは、どのくらい好きなのかな』と聞いたんです。娘はちょっと考えてから、『東京タワーくらい』と答えたの」

 天上の神様と東京タワー。水谷は伊藤に「ママと差が付き過ぎている。どうしてなんだ」と訴えた。彼女の答えが秀逸だった。

「『子供はね、本能的に男のいい加減さを見抜いているのよ』だって(笑)。確かにね、見抜かれているんだなと思ったけど、教えてもいないのに、あんな小さな子供がどこで差を付けることを覚えたんだろう。雲の上の神様と東京タワーなんて、ひどくありませんか(笑)」

 家族の何気ないやりとりを聞くだけで、幸せな光景が浮かんでくる。

 趣里がバレエに興味を持ったのは、幼稚園の友だちの影響だった。

「一番仲のいい女の子がバレエを習っていたので、一緒に行きたいと言い出して、それで通わせていたら、すっかり興味を持ってしまってね。だけど、バレエに誘ったその子は辞めてしまって、趣里だけが残ったんです」

 バレエに夢中な趣里を見ているうちに、心配になったことがある。

「日本ではバレエで食べていくのは、なかなか難しいですよね。バレエに限らず、芸術の世界で生きるのは大変なことです。将来のことを思って、娘に、『そういう世界は食べていけないから大変なんだよ』と言ったら、『ううん、先生はちゃんと食べてるよ』って。娘は、朝昼晩のご飯を食べているという意味で答えたんですね(笑)」

 趣里が小学校に入学してからは、別なアドバイスをするようになった。

「こちらの世界には来ないように言っていたんです。僕も蘭さんも今こうしていられるのはたまたまで、偶然こうなれた。だから、娘にはもっと確実な道を歩んでほしいと思ったのね。この世界って、天国と地獄を見なきゃいけないでしょ。わざわざそこへ行ってほしいとは思わない。やってみなければ才能があるかどうかは分からないけど、やってしまってからでは手遅れだから。どう転ぶか分からないことを勧めたりはできなかったんですね」

 しかし、水谷本人は12歳で劇団に入り、芸能の道を歩み始めた。自分の意志で、だ。

「自分のこととなると、あのときなんでやらなかったんだ、とか、こうすれば良かったとか、そういう後悔がない人生を送ろうと思っているのに、子供のこととなると、リスクを負わせたくないという思いが勝るんですね。とにかくこっちには来ないでと、繰り返していた」

 そんな思いが変わったのは、かなり後年のことである。

「自分が娘の年齢のときに何をしていたのか。それを自分に問い返すと、いやいや、そんなことを言える立場か、と思いましたね。親の言いなりに生きてきたわけでもないし」

※水谷豊・松田美智子共著『水谷豊 自伝』から一部を抜粋、再構成。

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