「2億円の借金を返すために作家になった」 直木賞作家・山本一力が語った凄絶な貧乏暮らし 「受賞した段階でまだ400万円の借金が」
債権者に文学賞の結果を見せて…
当時、俺たちが住んでいたのは、佃島の高層マンション。エントランスにコンシェルジュがいて「お帰りなさいませ」と言ってくれるような、俺たちには分不相応なマンションだった。そこで小説を書き始めたんだけど、いよいよ家賃も支払えないほど生活は追い詰められていく。そうしたら、ある日、カミさんが自転車に乗って家を飛び出したんだ。何事かと思ったら、一日中走り回って、家賃が半額くらいのマンションを門前仲町の富岡八幡宮近くに見つけてきてくれてね。
この頃は本当にカミさんに頼りっきりだったな。書いたこともない小説を一人で書くんだから、進んでいる方向が正しいのかどうかも分からない。だから、夜、原稿用紙を5枚、10枚書いてはカミさんの枕元に置いて、それを昼間、俺が働きに出かけている間に読んでもらう。彼女は原稿を読んでは「続きが読みたい」って言ってくれてね。それがどれだけ心強かったか。
そうして書き上げた350枚の原稿が長編時代小説の「大川わたり」だった。書き上げたばかりの原稿をカミさんとまだ小さかった小僧を連れて出版社に持ち込んだのを覚えている。これが95年の小説新潮の新人賞で最終選考まで残って、その結果をまた債権者たちに見せて。「もう少し待ってくれ」と必死だったな。
電気も止まり…
そして97年、「蒼龍」でようやくオール讀物新人賞を受賞したんだ。単行本デビューにはさらに3年がかかった。今も続く「損料屋喜八郎」シリーズの第1作なんだけど、初版は8千部。部数の相場も知らねえから、10万部くらい刷ってもらえると思ってて落胆したけど、やっと返済のスタートラインに立てた。ただただ、ありがたかったよ。
その後も、とにかく書いて、書いて。5年後の2002年、「あかね空」で直木賞を受賞し、ついに借金を完済することができたんだ。
「あかね空」までは生活も本当に苦しかった。電気はしょっちゅう止められるし、生活費が足りなくなるたびにサラ金でお金を借りるという自転車操業状態だった。直木賞を受賞した段階で複数のサラ金に400万円くらいの借金が残っていたね。
それも「あかね空」の印税で全て返すことができた。書店でサイン会をしていたら、そのサラ金の窓口のお姉さんたちが来てくれてな。みんな「また借りにきてくださいね」なんて冗談を言っていたけれど、人と人とのつながりがうれしかったね。
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