「親ガチャ」「配属ガチャ」を嘆いた時点で見失ってしまうこと 知らぬ間に自分を縛る「呪いの言葉」

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「親ガチャ」が「ユーキャン新語・流行語大賞」のトップテンに選ばれたのは2021年のこと。この少し前から「ガチャ」という言葉そのものは一般化していた。主に自分ではどうにもならない「運命のようなもの」を嘆くときに用いられる。「親ガチャ失敗」と言う場合、「親がロクでもないことで、自分もどうにもならない境遇にいる」のを嘆いているということになる。

 この概念は使い勝手が良いようで、「配属ガチャ」「上司ガチャ」といった言葉もあるようだ。声には出さないが「部下ガチャ失敗」と思っている人もいることだろう。

 しかし、人材育成の仕事に携わってきたコンサルタントの山本直人氏は、この「ガチャ」という言葉には要注意だ、と指摘する。便利な言い回しだけに、つい口にしたくなるのが人情というもの。しかし、その時点で何かを見失いはしないか、と。山本氏の新著『聞いてはいけない―スルーしていい職場言葉―』から見てみよう(以下、同書をもとに再構成しました)

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「自分でどうしようもない」時こそ

 私が就職活動をする前に先輩に言われたことで印象に残っていることがあります。

「就職先以上に配属先が大事だ。あれは第二の就職みたいなもので、人生を決めるのは就職より配属だと思う」

 相当昔のことで、大きな企業に入れば「一生勤める」ことが前提になっていたような時代です。大量採用をしている企業では、いわゆる「出世コース」が誰の目にもわかるようなこともありました。

 現在では、大企業でもさまざまなキャリアパスがありますし、転職の機会もはるかに増えました。実力を磨いて起業する人もいます。

 それでも、第一志望の会社に入ったのに、配属希望が叶わなかったことで悩む人はたくさんいます。未だによく相談を受けるのですが、「じゃあ転職すれば?」と言っても解決にはなりません。

 就職した会社自体は、行きたかった会社です。待遇だって十分だし、先輩方も素晴らしい人が多い。そういう人こそ、「だのに、なぜ……」と悩むわけです。

 そんな時に私が必ず言うのは「次を予期して備える」ということだけです。

 会社ですからその先も異動はありますし、最近ではその際に希望を聞く制度も増えています。その時に備えるためにすることはシンプルです。

 まず、いまの仕事に集中して評価を得ること。その間にも勉強を欠かさないことに尽きると思います。

 加えて話すのは、かつて読んだアスリートの経験談です。スポーツはケガなどによって、休養を余儀なくされることがあります。この「自分ではどうしようもない時」にどうするか?

 複数のアスリートの話に共通することは、「復帰した時のために、できるトレーニングをして準備すること」であり、「起こったことを過度に振り返らない」ということでした。まさに「次を予期して備える」を実行しています。反省はしても、「ああすればよかったのに」と悔いることはメンタルコントロールの上ではマイナスになるということです。

 この話に納得した人は、その後に成果を残しています。次の異動で希望が叶う人もいれば、思い切って他社に転職した人もいます。いずれにしても「自分ではどうしようもない時」でもするべきことをしていたか? ということが将来を決めていくのです。

「配属ガチャ」は逃避?

 そんなわけで、新卒一括採用をおこなう日本企業では、配属が大きな分かれ道になることが、ずっと続いているのでしょう。ところが、最近になって「配属ガチャ」という言葉が流行るようになりました。

「自分の力ではどうしようもないこと」を「ガチャ」というような使われ方がされるようになったのです。

 ガチャという言葉には、軽い響きがあります。そもそもは数百円程度のカプセルトイを買う時の感覚ですから、「まあ、これでもいいか」というような感覚もあるでしょう。そして「配属ガチャ」と言えば、どこかあきらめの気持ちがにじんでいるように思います。

 しかし、配属を考える人々は必死です。全員が満足しないことはわかっているけれど、できる限り希望に応えたい。その一方で組織にとって最適な配属をおこなおうとします。

 それを「ガチャ」と言ってしまえば、配属の意味を軽いものにしてしまうでしょう。意に沿わない配属となった人には、「どうせガチャだから」と一時の慰めになるかもしれませんが。

 そこに、大切なことを見失っている可能性はないでしょうか。

 見失うことの一つは、「自分自身の能力への反省」です。希望部門に配属されなかったということは、「何が足りなかったのか?」を自問する機会でもあります。

 人事担当者は二言目には「適材適所」といいます。しかし、ある能力において自分よりも優れた人がいる可能性があるという事実から目を逸らさないことが発奮するきっかけになるケースもよくあります。

 見失いがちなもう一つのことは、「配属された真の理由」、つまりその人が気づいていない能力です。希望通りではない部門に配属されたとしても、そこには必ず理由があります。「その仕事に向いているはずだ」とか「ぜひ挑戦してほしい」という気持ちが、その配属には込められています。

「ガチャ」のように何となく使い勝手のいい言葉は薄いベールのようなもので、本質を隠してしまうことがあります。配属が希望通りに行かない時に感じる屈辱感、それを克服する過程、その先にある自分を再発見する可能性。

 思い通りにならなかった時こそが、いい機会です。

「配属ガチャ」だからと自分を見切ってしまえば、そうした機会も失われるでしょう。そして、「ガチャ」という言葉は、だんだんとその人の可能性を狭めていくのではないでしょうか。

「親ガチャ」は宿命か

「配属ガチャ」という言葉は、ビジネスの世界で話題になり、記事にもなりました。2018年頃からネット上では見られるのですが、2022年頃から一気に記事などが増えたようです。

 そして、それ以前から聞かれるようになっていた言葉が「親ガチャ」です。自らが生まれた環境が不遇であることを嘆く言葉として、広まっていきました。2021年の新語・流行語大賞のトップテンにも選出されたので、「配属ガチャ」以上にインパクトがあったのでしょう。

「親ガチャ」という言葉は新しくても、その言葉が指す状況ははるか昔からありました。「貧しい家に生まれた」や「恵まれない環境で育つ」ということは、事実として世界のあちらこちらにあります。

 そのような状況を克服しようと多くの人が行動を起こし、その裏打ちとなるような思想も生まれて、また施策も実行されてきました。まだまだ不完全ではありますが、長い目で見れば、個人の置かれた境遇を社会全体の課題として解決しようとする取り組みはずっと続いています。

 それでも、日本で「親ガチャ」という言葉が流行った背景については、さまざまな見方があります。

 たとえば、社会的格差が固定してきたために「生まれた家」によってその後の人生の選択肢が決まってしまい、それによって若い人の間に閉塞感が高まっているということを指摘する意見があります。有名大学に入学した学生の家庭は世帯所得が平均より高いことなどを例証として挙げる人もいます。

「親は尊敬するべきもの」という規範は絶対的なものではなく、子どもにとって避けようのない不幸な状況が想像以上に数多く存在していることが明らかになりました。

「親ガチャ」という言葉が広まったことには、それなりの理由があることがわかります。一方で「親には感謝するべき」という考え方の人は、「親ガチャ」という言葉に不遜な響きを感じて嫌う傾向もあるようです。

 たしかに、自分ではどうしようもない経済的貧困や、虐待などの環境にいる人々に対して手を差し伸べる仕組みはより強化されるべきだと思います。言葉が流行る背景には、何らかの実態があるのでしょう。

 それでも、「親ガチャ」という言葉を安易に使うことには注意が必要だと思うのです。配属を「ガチャ」と言ったとたんに大切なことを見失うのと同じことだと考えます。

還暦になって「ガチャ」を嘆かれても

「親ガチャ」という言葉が、本当に自らの力ではどうしようもないような境遇にいる人が使うものであれば、ここまで流行語にはならなかったと思います。私が実際に耳にした範囲でも、十分に恵まれている人が「親との相性が悪い」時に使っているようなことも結構あります。

 また、十分に「大人」と言えるような年齢の人が、「親ガチャ失敗したから」と嘆いていることもありました。社会人になって20年以上経っています。たしかに仕事などで不遇なところはありますが、ここに来て親のせいにすることもないのにな、と感じます。

 ちょうど「親ガチャ」という言葉が流行ったので、いまの自分を正当化することに便利だったのでしょう。

 この言葉の怖さは、まさにここにあると思います。親との間に何の葛藤も抱えていなかったり、家庭環境に対して何の不満もなかったりする人は、むしろ少数派だと思います。

 そうした中で、ある程度の年齢になれば「親のせいにする」ことを克服していくことが自然に求められてきたと思うのです。

 以前、還暦にもなって「オレは親に恵まれなかったんだ」と言っている人に遭遇したことがあります。周囲の人はみんな引いていました。どう見ても、その人はやたらと他人のせいにする傾向があったのですが、「その歳で親のせいにするのか」と周囲はあらためて驚いたのです。

自分で引き受ける発想を

 人が生きていて「うまくいかないな」と感じた時に、すべてを自分の責任で反省することは難しいと思います。ある程度、周囲のせいにすることは仕方ないでしょう。

 しかし、うまくいかないことを「自分で引き受けてどうにかしよう」という人もたくさんいます。仕事でも一定の成果を挙げてきた人は、そういう気構えで常に取り組んできています。

 いっぽうで、「自分で引き受ける」発想がない人は、いつまでも自分の問題を棚上げして、環境に理由を求めます。

 そうやってミドルになっても、それどころか老齢になっても「親のせい」のように思っている人はいます。

 自分で引き受ける人たちは、そうした発想をどこかで捨ててきています。人によって違いはありますが、多くは社会に出て何年か経った頃に「ここからは自分の責任で生きていくんだ」という覚悟を決めるようです。

 どちらの方が幸せに生きているかは言うまでもありません。

「親ガチャ」という言葉が流行ったことには、それなりの社会的な状況変化があったとは思います。しかし、実際に自分の努力と覚悟が足りない人が、自分を納得させて正当化するために使っていることもまた多くあると思うのです。

 響きの軽い言葉ですから、ついつい冗談めかして使うこともあるでしょう。しかし、そうした言葉が知らぬ間に自分の思考を縛ってしまうこともあります。思わず言いたくなった時は、心の中に「封印」して呪いを閉じ込めることをお薦めします。

『聞いてはいけない―スルーしていい職場言葉―』(新潮新書)から一部を抜粋、再構成。

山本直人(やまもとなおと)
1964(昭和39)年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。博報堂に入社。2004年退社、独立。現在マーケティングおよび人材育成のコンサルタント、青山学院大学経営学部マーケティング学科講師。著書に『電通とリクルート』など

デイリー新潮編集部

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