【どうする家康】大坂城に300人もの側室が…豊臣秀吉の“女好き”をひもとく

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 明智光秀(酒向芳)を討ち、ポスト信長の方針を決める清須会議で主導権を握り、敵対することになった柴田勝家(吉原光夫)を滅ぼし、羽柴秀吉(ムロツヨシ)の天下人への勢いは加速していた。NHK大河ドラマ「どうする家康」の話である。第31話「史上最大の決戦」(8月13日放送)には、完成しつつある豪壮な大坂城も描写されるようだ。

 秀吉と直接の交流があったイエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスは、その著書『日本史』に、織田信長が破壊した大坂本願寺の跡地に秀吉が城を築いたねらいについて、こう記している(以下、松田毅一・川崎桃太訳)。

「そこは都に隣接する諸国のうちでもっとも地の利を得ていたので、(羽柴)筑前殿は当地を選び、ここに新しい都市、宮殿および城郭を築くことにした。そしてそれらは(織田)信長が自らの豪壮偉大さを大いに発揮しようとした安土山の全建築を比べものにならぬほど凌駕するものにしようと企てた」

 地の利のいい大坂に秀吉は、信長の安土城をはるかにしのぐ立派な城を築こうとした、というのだが、その先に気になる記述がある。

「(羽柴)筑前殿は、まず最初にそこにきわめて宏壮な一城を築いた。その城郭は、厳密に言えば五つの天守から成っていた。すなわちそのおのおのは互いに区別され、離れており、内部に多くの屋敷を有するはなはだ高く豪壮な諸城である。それらのうちもっとも主要な城(本丸)に秀吉が住んでおり、その女たちも同所にいた」

「五つの天守」という表現が引っかかるが、大坂城に天守が五つあったという事実はないので、曲輪、すなわち本丸や二の丸など城のなかにつくられた平坦な区画のことを指していると思われる。それより気になるのは、「その女たちも同所にいた」という表現である。

「多くの婦人をかかえてもいいならキリシタンになる」

 むろん、大坂城の本丸には正室のおね(ねね)こと北政所も住んだが、「その女たち」とは複数であり、また意味深な表現である。具体的になにを指すのかについては後述するとして、フロイスは『日本史』の少し先に、以下のような秀吉の発言を記載している。天正14年(1586)3月16日、イエズス会の日本地区準管区長で同じポルトガル人のガスパール・コエリョとともに、大坂城を訪れたときのものである。

「予は伴天連たちが大坂城の河向こうに住む大坂の仏僧(本願寺の顕如ら)より正しいことを良くわきまえている。なぜなら貴殿らは仏僧とは異なった清浄な生活を行ない、仏僧および他の僧たちのように汚れたことをせぬ。この点貴殿らは彼より優れていることが良く判り、予もまたキリシタンの教えが説くところにことごとく満足している。もし貴殿らが、多くの婦人をかかえること禁じさえしなければ、予はキリシタンとなるのに別に支障ありとは考えておらず、その禁止を解くならキリシタンになろう」

 周知のとおり、西洋社会はキリスト教の教えにしたがって一夫一妻制なのに対し、当時の日本は、ことに権力者のあいだでは事実上の一夫多妻制だった。とはいえ、子供や若者の死亡率が高かった当時、それは血筋を絶やさないための方途でもあった。また、当時は他家との関係性をたもつための政略結婚として、正室だけでなく側室を迎え入れるのも普通だった。

 それにしても、この発言からは、秀吉の欲求が「多くの婦人をかかえる」ことそれ自体に向かい、それがこの男の行動原理であったようにさえ感じられる。

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