【どうする家康】鯉が臭ったからではない…「本能寺の変」を起こす明智光秀の残念な描き方

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「信長を本能寺で討つ!」

 NHK大河ドラマ『どうする家康』の第27回「安土城の決闘」で、こう決意を口にしたのが、明智光秀(酒向芳)ではなく徳川家康(松本潤)だったから驚いた。家康はその3年前に、有村架純が演じた正室の築山殿(ドラマでは瀬名)と嫡男の松平信康(細田佳央太)を死なせて以来、「信長を討つ」ことだけを支えに心を保ってきた、という設定だったのだ。

 しかし、家康が妻子を処分したのは、信長に命じられたからではない。築山殿は信康を巻き込んで宿敵の武田と内通し、それが発覚して、さらには信長の知るところとなると、身を守るために家臣団の多数派工作までした。これでは徳川家中が分裂しかねないし、そもそも身内が敵と内通していたのでは示しがつかない。だから、家康は自分の判断で2人を処分した。史料やこれまでの研究の積み重ねで、おおむねそう考えられている。

 だから、家康が信長を恨んで「討つ」ことを考えたというのは、ナンセンスもはなはだしい。そもそも家康は、信長のおかげで武田を滅ぼすことができ、武田の領国だった駿河(静岡県東部)も領有することができた。家康に信長を「討つ」動機がないのである。

『どうする家康』では最初から、家康と築山殿を仲睦まじく描いてきた。その流れを変えられないので、築山殿と信康の死を信長のせいにして、被害者家康の苦悩を描いているようだが、その結果、ドラマは史実から大きく隔たってしまった。

 もっとも、ドラマのなかでも実際に信長を討つのは、さすがに家康ではなく光秀だが、光秀が信長を討つにいたった経緯については残念な描き方だった。

光秀は家康の接待に失敗していない

 家康は天正10年(1582)5月11日、浜松(静岡県浜松市)を発ち 、15日に安土城(滋賀県近江八幡市)に到着した。武田討滅と駿河下賜について信長に礼を言うのが目的で、家康一行が丁重にもてなされたことは、『信長公記』や『家忠日記』にも記されている。このとき一行の饗応役を命じられたのが光秀だった。

 ドラマでは、光秀の饗応で家康一行に淀の鯉が出されたときに「事件」は起こった。家康が鯉の切り身を口に運ぼうとして、何度か臭いをかぐと、信長は「臭うならやめとけ。当たったら一大事じゃ」と言う。それに対し、光秀が「臭うはずがありませぬ。徳川殿は高貴な料理に馴染みがないのでございましょう」と弁明すると、信長は激高して膳をひっくり返し、光秀を何度も殴り、「出ていけ」と怒鳴って追い出したのだ。

 こうして光秀は饗応役を解かれ、羽柴秀吉の毛利攻めの援軍を命じられる。じつは、臭うような仕草をしたのは家康の芝居で、それによって光秀を地方に追いやり、信長を討つ環境を整えた、というのがドラマの流れだったが、荒唐無稽だと言うほかない。問題は、光秀が饗応役を失敗したのが事実かどうかだが、事実とは認められていない。

 江戸時代初期に書かれ、内容の信憑性に疑問符が打たれている『川角太閤記』に唯一、光秀が饗応に失敗した話が書かれている。光秀が準備している料理をチェックすると、悪臭が漂っていたので信長は激怒。光秀の饗応役を更迭。体面を傷つけられた光秀は、用意した料理を器ごと城の堀に投げ捨てたというのだ。

 しかし、この逸話はほかの史料では確認されず、光秀は家康一行の饗応はしっかり勤め上げたと考えられている。

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