佐藤蛾次郎は外見に似合わず、細やかな神経の人…団子屋に寅さんが帰ってくるシーンで気付いた渥美清の異変とは

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優れた観察眼で見た晩年の渥美清

 蛾次郎は外見に似合わず、とても神経が細やかなところがあった。人を見る目、というのか、観察眼が優れていたのだろう。

 映画「男はつらいよ」シリーズ第48作「寅次郎紅の花」(95年)。撮影の合間、寅さんを演じた渥美清がセリフに窮する場面があった。69年にシリーズ第1作が始まって以来、渥美がセリフに詰まることは一度もなかったのに……。

 帝釈天参道にある実家の団子屋に寅さんが帰ってくる場面でも、蛾次郎は「異変」を感じた。毎回、人をかき分けて中に入ってくるような感じで、勢いがあったが、48作目の時は当たりが弱かった。

「変だなあ。おかしいなあ」

 蛾次郎はそう思ってふと渥美の顔を見たが、どことなく弱々しかった。しかも、顔には髭の剃り残しがあった。

 そのころ渥美は、体を横にしてメイクをした。起き上がるのも面倒くさかったのだろう。

 それまで蛾次郎にはいつも「どんな映画見た?」と聞いてきた。「女はいいけど、カミさんは泣かすなよ」とまで注意されたこともある。仕事の話は一切なく、いつも遊びの話だった。だが、そんな渥美も癌の進行=人生のカウントダウンとともに、よけいな世間話をしなくなった。

 振り返ると、蛾次郎にカネがない時、お小遣いをくれたのが渥美だった。友だちの少ない蛾次郎を気遣って、飲み屋や食事に連れて行ってくれたこともあった。自動車事故で入院した時も病院に見舞いに来て、看護師さんたちを笑わせ、「蛾次郎をヨロシクお願いします」とまで言ってくれた。

 まるで人が変わってしまったかのようであった。蛾次郎はどんな思いだっただろう。悲しくなかっただろうか。

 筆者は一度、当時の胸中を蛾次郎本人に尋ねたことがある。

「いや、仕方がないよ。渥美さんは必死に癌と闘っていたんだから。体が蝕まれ、撮影所に来るだけで大変だったと思うよ」

 蛾次郎は淡々とそう言った。

 渥美は1995年11月、「寅次郎紅の花」の奄美ロケの際、NHKのドキュメンタリー番組の取材に珍しく応じた。寅さんを演じた時の境地をスーパーマンにたとえ、こう話した。

「撮影の時に見てた子どもたちが『飛べ、飛べ、早く飛べ!』って言ったけど、2本の足で地面に立ってちゃいけないんだよね。ご苦労さんなこったね。スーパーマン、飛べないもんね。針金で吊ってんだもんね」

 進行する癌に体がむしばまれ、四角いトランクを提げて立っているのも精いっぱいだっただろう。格子柄のあの背広も重かっただろう。

 いま振り返ると分かるのだが、抗癌剤の副作用か、普段なら甲高く、よく響く声もかすれがちだった。撮影の合間は笑顔を見せることはほとんどなく、サインや握手を求めるファンも無視した。

「愛想ないね」の罵声が飛ぶ。「おい、天皇陛下だって手を振るぞ」と一緒に撮影していた親友の関敬六さん(1928~2006)が注意すると、「もういいんだよ」と投げやりな答えしか返ってこなかった。「もういいんだよ」とはどういう意味なのだろうか。日本人の誰からも愛される寅さんのイメージに縛られ、がんじがらめになってしまったことへの思いを親友にだけは伝えたかったのだろうか。

 奄美ロケの9カ月後の96年8月4日、渥美は転移性肺癌のため帰らぬ人となる。享年68。

「渥美さんは本物の役者だった。俺はそんな人と一緒に仕事ができたことがうれしいし、何よりの宝になった」と蛾次郎。寅さんという架空の人物を実在させた背景に存在した「壮絶な死」。そのつらさをすべて引き受けていたのが渥美であり、蛾次郎も分かっていた。

 次回はウクレレ漫談家の牧伸二(1934~2013)。ハワイアン風の旋律に軽妙な社会風刺をのせて、最後は「あ~あんあ、やんなっちゃった。あ~あんあ、驚いた」と朗らかに締めた。自宅近くの多摩川に飛び込み、亡くなってから10年になる。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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