「横浜優勝」への呼び水となった“マシンガン記念日” ボークで打ち直し…それが奇跡の起死回生弾を生んだ!

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球史に残るミラクルゲーム

 初の交流戦VをはたしたDeNAがペナントレースでも首位争いを演じ、25年ぶりのリーグ優勝なるか、ファンの期待を集めている。過去の優勝チームは、1985年の阪神のバックスクリーン3連発に代表されるように、その快挙を象徴する“伝説の試合”とともに語られることが多い。DeNAも横浜時代の1998年の優勝時には、同年7月15日の巨人戦で、ボークの打ち直し後に起死回生の同点2ランが飛び出すという球史に残るミラクルゲームを演じている。【久保田龍雄/ライター】

 1998年7月15日、筆者は試合直前の横浜スタジアムにいた。「私のふるさと紹介」という雑誌企画で、この日登板予定のなかった三浦大輔(現・DeNA監督)を取材するためだった。

 当時24歳の三浦は、この年から背番号が「46」から「18」に変わり、斎藤隆、野村弘樹とともに先発ローテの中心を担っていたが、“ハマの番長”の呼称はまだそれほど浸透していなかったと記憶している。

 奈良県橿原市出身の三浦は、橿原神宮を「結婚式を挙げた思い出の場所」に挙げ、地元の夏祭りで食べた露店のイカ焼きがお気に入りだったという話を披露してくれた。

 筆者が取材を終えて都内の編集部に戻ると、すでに試合が始まっていた。つい先ほどまで球場にいたので、経過が気になり、テレビの前に近寄ってスコアを確認すると、まだ3回だというのに、横浜は0対7と大きくリードされていた。

リズムを狂わせていく桑田

 初回に先発・斎藤が巨人打線につかまり、清原和博の3ランなどで4失点。3回にも桑田真澄の二塁打などで3点を追加された。

 取材に行った日にこんな展開になると、直接の因果関係はないと頭でわかっていても、やはり気にしてしまう。3年前の95年にロッテ・平野謙を取材したときも、直後に行われたオリックス戦で、平野が野田浩司から日本新記録の18個目と19個目の三振を奪われたので、「よりによって取材の日に……」と、まるで自分自身の“負のパワー”のせいであるかのような後ろめたさを覚えた。

 それだけに、横浜が反撃に転じて、1点でも追い上げてほしいと願ったが、桑田から大量点を取るのは至難の業にも思えた。

 だが、3回の横浜の攻撃中、桑田は球審から「セットの時間が長い」と注意されたことをきっかけに、リズムを狂わせていく。直後、鈴木尚典のタイムリーで1点を返した横浜は、4回にも先頭の駒田徳広からオール単打の5連打を浴びせ、桑田をKO。代わった平松一宏からも石井琢朗、波留敏夫が連続タイムリーを放ち、1点差まで追い上げた。

 しかし、リーグきっての重量打線を誇る巨人は7回、松井秀喜のソロと高橋由伸のタイムリー二塁打で2点を加え、9対6と突き放す。

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