【どうする家康】信長を悪く描くための“道具”にされた武田勝頼  眞栄田郷敦は好演も…

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 眞栄田郷敦演じる武田勝頼は、家臣たちに「おぬしらは逃げよ。ここまでついてきてくれて礼を申す」と伝えた。そして、それでも残った40人ほどを従え、「ここを死に場所と決めた。武田の名を惜しめ。われこそは武田四郎勝頼である」と声を上げ、敵と斬り合って壮絶な最期を遂げた。

 NHK大河ドラマ『どうする家康』の第26回「ぶらり富士遊覧」(7月9日放送)。武田信玄の嫡男、武田勝頼の最期が印象深く描かれ、ネット上にあふれた書き込みのとおり、「カッコよかった」といえよう。

 勝頼の最期については、「自刃した」と記されていることが多い。しかし、自刃したと書かれた史料がある一方で、信玄と勝頼の事績や戦術などを記した『甲陽軍鑑』や、江戸初期に編纂された日記風の史書『当代記』などには、敵を切り伏せながら壮絶に討たれた旨が記されている。つまり、死に方を断定するのは難しく、『どうする家康』では、討ち死に説が採用されたわけだ。

 付け加えるなら、その陰で、まだ16歳だった勝頼の嫡男の信勝は、流れ弾が当たって戦えなくなった時点で、武田家の一門でもあった麟岳和尚と刺し違えて死に、それを見た側近は自刃し、さらには北条氏康の娘である勝頼の正室も自刃した。戦国最強といわれた武田家が滅亡する瞬間は、あまりにも哀れだった。

脚本家に利用されてしまった勝頼

 ただ、『どうする家康』におけるここまでの勝頼の描き方には、残念な点も少なくなかった。

 このドラマで脚本家の古沢良太氏は、あたかも織田信長(岡田准一)が諸悪の根源であるかのように描いている。人を人としてあつかわず、その結果、だれからの信頼も得られなくなる信長を描出し、それと対比させることで徳川家康(松本潤)の個性を浮上させようとしている。

 そうした描き方の最たるものが松平信康事件だった。すなわち家康の正室で有村架純が演じた築山殿(ドラマでは瀬名)と、嫡男の信康(細田佳央太)の命を、家康が奪ったできごとである。謎が多いこの事件だが、残された史料や状況証拠に近年の研究成果を加味すると、築山殿が武田方と内通し、信康もそれに加担したため、家康は妻子の命を奪うという究極の決断を余儀なくされた、と思われる。その前提として、そもそも家康と築山殿は決定的に不仲だったと考えられている。

 ところが『どうする家康』では、家康は瀬名と仲睦まじく、瀬名が武田と内通したのは、信長と組んでいるばかりに戦が終わらないという状況に終止符を打ち、「奪い合うのではなく与え合う」という理想の国家を築くためだったとされた。そして、瀬名の発案に家康も家臣たちも同調した。脚本家は戦国の世にありえないファンタジーを持ちこみ、信長がその邪魔をして、家康に妻子を奪うという決断をさせた、という描き方をした。

 大河ドラマとてドラマである以上、一定程度はフィクションである。しかし、多くの視聴者が「歴史ドラマ」だと認識している以上、せめてあきらかだとされている史実の改竄は慎むできではないだろうか。

 だが、現実には、こうして信長を「悪」に仕立てるために、武田勝頼がうまく利用されてしまった感があるのである。

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