【どうする家康】瀬名のユートピア計画に覚える違和感 ウクライナ戦争に影響を受けたか

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視聴率は高まらない

 第24話の視聴率は個人6.1%(世帯10.0%)。このところ、ほぼ同水準である。前作「鎌倉殿の13人」の第24話は個人7.1%(世帯12.0%)、前々作「青天を衝け」の同話は個人8.7%(世帯14.3%)だったから、数字は高くない(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。

 再放送、BSプレミアム、BS4Kで観られる放送条件は3作品とも同じだ。また、録画を含めた総合視聴率は、6月11日放送の「どうする家康」第22話が個人9.8%(世帯16.9%)だったのに対し、昨年6月5日放送の前作「鎌倉殿の13人」第22話は個人12.4%(世帯20.4%)。水をあけられている。歴史改変を受け入れられない視聴者の存在も支持が上がらない一因なのかもしれない。

 瀬名と武田方の関わりを史書はどう記しているかについても記したい。「築山殿(瀬名)事件」(1579年)のことである。

『三河物語』などによると、発端は信康の正室・五徳(ドラマでは久保史緒里・21)が父の信長に「12カ条の報告」を送ったことにある。瀬名と信康が共謀し、武田方と内通しているという内容だった。

 瀬名については、「滅敬(げんきょう)」という武田方の僧と密通し、織田方の情報を流していると書かれていた。「どうする家康」では、唐人医師に変装した穴山信君の別名が滅敬ということになっている。

 信康については、武田の家臣の娘を妾にしていること、五徳の侍女の腕をへし折ったこと、町の踊り子を弓で殺したことなどが書かれていた。

 この報告を見る限り、信康はとんでもない男だが、あの時代の人物評は基準が違った。家康は当時21歳の信康を高く買っていた。戦略家で武芸に秀でていたからだ。罪なき民を殺してもとがめられなかった。

 五徳からの報告を受けた信長は、家康の筆頭家老・酒井忠次(ドラマでは大森南朋・51)を呼び出し、その内容が事実かどうか確かめた。これに対し、酒井は12カ条のうち、2つしか弁明できなかった。このため、信長は家康に対し、築山の殺害と信康に切腹させることを命じる。家康は従うしかなかった。

 瀬名と信康に謀略の意思はなかったとする声は今も絶えない。それでも2人が死に追いやられた理由については諸説がある。酒井が五徳に近い立場だったため、意図的に信長への報告を強く否定しなかったという説や、信長が自分の長男・信忠より優れている信康を脅威に感じたので、抹殺したという説などである。現実は瀬名が夢見たユートピアとは程遠い世界だった。

 メッセージ性を感じさせた部分はまだある。第24話に家康の子供を宿した侍女・お万(松井玲奈・31)が回想で登場し、瀬名に向かってこう言った。

「私はずっと思っておりました。男どもに戦のない世などつくれるはずがないと。政もおなごがやれば良いのです」(お万)

 男女共同参画社会は戦国時代の時点から必要だった、そう古沢氏とスタッフたちは訴えているのか。

 また、第10回から登場した家康の最初の側室・お葉(北香那・25)は同性愛者であるかのように描かれている。この時代の女性同士の恋愛は史書ではまず見当たらないが、古沢氏とスタッフはごく自然なことだと言いたかったのだろう。

 ただし、お葉のエピソードも歴史の改変であり、実在のお葉は家康の次女にあたる督姫を出産した。1590年、家康が本拠地を江戸城に移すと、一緒に移り住んだ。

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