【どうする家康】設楽原の戦いでは「ブラウスにベスト姿」の家康 ヨーロッパかぶれには意外な狙いも

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 織田信長に進取の気性があり、当時、日本と交流があったヨーロッパ(具体的にはスペイン、ポルトガル、イタリア)の文物の影響を受けたことはよく知られる。

 NHK大河ドラマ『どうする家康』でも、第21話「長篠を救え」(6月4日放送)や第22話「設楽原の戦い」での衣装が印象的だった。フリルがついたブラウスのうえにキルティング地のベストを重ね、さらに華麗な陣羽織を羽織っていた。

 信長は記録に残されているだけでも、ヨーロッパからやってきたカトリックの宣教師たちに、30回以上も面会している。イエズス会の宣教師でポルトガル人のルイス・フロイスが記した『日本史』によれば、いつも宣教師たちを質問攻めにし、さらには「彼(信長)がインドやポルトガルからもたらされた衣服や物品を喜ぶことに思いを致したので、彼に贈られる品数はいともおびただしく」(松田毅一・川崎桃太訳)と書かれている。

 だから、長篠・設楽原の戦いに際し、信長がブラウスにベスト姿で家康の前に現れていても、不思議ではなかったといえよう。

西洋風の甲冑にマント姿

 この時代にとくに流行ったアイテムに、『どうする家康』でも信長が羽織っている陣羽織がある。これは戦の陣中で鎧のうえに着用する丈の短い上衣で、武将たちは自身の豊かさを示すために、ヨーロッパ産の羅紗(毛織物の一種)などを積極的にもちいた。

 たとえば、江戸時代に越後国(新潟県)新発田藩を治めた溝口家に伝来する黒鳥毛揚羽蝶模様の陣羽織は、信長から拝領されたと伝えられる。これは腰から上と下とでデザインが分かれ、腰上には山鳥の黒い羽を1本1本刺しこんで縫いつけてある。衿の部分の縁取りには、2段重ねのちりめんの襞がついているが、これはあきらかに西洋の影響である。腰下の唐草模様を織り出した絹織物も、いかにもヨーロッパ風のデザインだ。

 また、信長はマントも好んで着用した。上杉謙信所用の赤地牡丹唐草文天鵞絨洋套、すなわちビロードのマントは、信長が謙信に贈答したもので、ヨーロッパで仕立てられたと考えられている。

 当時、甲冑も急速に変化していた。とくに鉄砲を使った戦闘が中心になると、ヨーロッパから日本にもたらされた甲冑の胴の部分が、鉄砲による攻撃にも強いことからも重用され、南蛮胴として定着した。要するに、ヨーロッパから輸入された甲冑の胴の部分を改造したり模倣したりし、そこに下半身を覆う草摺や袖などを取りつけたのだ。

 信長はこうした南蛮胴のうえに、ヨーロッパ風のデザインを取り入れた陣羽織やマントを羽織ったわけで、大変な西洋かぶれだといえよう。

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