話題の「リトル・マーメイド」は原作とこんなに違う ディズニーがかけた魔法とは

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 黒人女性歌手のハリー・ベイリーが主演ということで注目も集めつつ、違和感を口にする人もいた実写版映画「リトル・マーメイド」だが、公開後の評価は高いようである。

 違和感の理由の一つは、「白い肌に青い目」といったイメージが強いマーメイド役をベイリーが務めることにあったという。多様性の時代とはいえ、そこまでイメージを変えてしまっていいのか、と。

 しかし、もともとの「リトル・マーメイド」(アニメ版・1989年制作)自体が、原作を大幅に改変した作品であることは意外と知られていない。

 原作「人魚姫」は、陽気なアニメ版とはかなり異なるストーリーと世界観を持つものだった。その作品を大胆にディズニーが作り替えたのだ。

 どちらかといえば暗い話にも思われる「人魚姫」にディズニーはいかに「魔法」をかけたのか。

 これを知れば、アニメ版も実写版もより深く楽しむことができること請け合いである。

 有馬哲夫著『ディズニーの魔法』をもとに、ディズニーにとってもエポック・メイキングだったこの作品の知られざる面を見てみよう。(全2回の1回目・以下は同書をもとに再構成したものです)

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「人魚姫」は悲恋ファンタジー

 ディズニーの「リトル・マーメイド」(以下、すべてアニメ版を指す)の原作はアンデルセンの名作童話「人魚姫」だとされている。

 しかし、もしも「リトル・マーメイド」を観た子供が、そのあとで原作に触れたら衝撃を受けることになるだろう。「人魚姫」は一言で言うならば、「悲恋ファンタジー」ともいえる内容だからだ(以下、両作品のストーリーに触れるので、そうしたものを知りたくない方はご遠慮ください)。

 まず「人魚姫」の世界観やストーリーをご説明しよう。

「人魚姫」のテーマは、人魚の国の姫と人間の国の王子との実らぬ恋である。しかも、この恋のために人魚姫は魔女に舌を切られて「声」を失い、足には激痛を覚え、血を流すという犠牲を払っている。

 人魚の世界にも王国があり、そこでは人魚たちが人間のような社会を形成し、人間のように生活をしている。海の下なので空がガラスの丸天井のようになっており、鳥の代わりに魚が海の上のほうを飛んで(泳いで)いるという違いはある。

 さて人魚姫は海の魔女から魔法の薬をもらって人間に変身する。この薬を手に入れる代償として、人魚姫は魔女に「声」を与えることになる。さらに魔女は、別の条件を提示する。

 もし人魚姫が王子の愛を得ることができず、王子が別の女性と結婚するようなことになれば、姫はその日の朝には「海の泡」になるというのだ。

 これは人魚の世界では、死ぬことを意味する。というのも人魚は通常「海の泡」になるまで、300年も生きることになっている。

 しかし結局、王子と結ばれなかった人魚姫は、「海の泡」にはならず、「空気の娘」になり、さわやかな風になって空を飛び、300年ののちには「永遠の魂」を得ることになる。

「人魚姫」はかなり奇想天外というかスピリチュアルな展開なのである。

アンデルセンの思想とは

 いくら「永遠の魂」を得たといっても、恋は成就していない。なぜこんな話になるのかといえば、当時のヨーロッパでは普通だった「万物照応」という考え方がアンデルセンの根底にあるからだ。

 これは次のような考え方である。

 この世界は神が創造したものだから、そこにあるものは神のデザインや意図にしたがって存在する。そこで、あらゆるものはそれぞれ照応関係(対応するものが存在するような関係)を持つことになる。たとえば人間世界には王や貴族を頂点とするヒエラルキーが存在している。同様に海にはクジラやイルカが頂点に立っており、動物界ではライオンやトラが頂点に立っている、と考えるのだ。だから海中にも王国があり、人魚の世界にもヒエラルキーが存在しているということになる。

 重要なのは、それぞれの世界は照応しながらも、別々に存在しているということだ。その境界線は神が定めたものであり、勝手に越えたり侵したりしてはいけない。

 だからこそ、人魚姫と王子が結ばれることはあってはならない。なぜなら境界線を越える行為だからだ。

 アンデルセンは、海の上の人間界と海の下の人魚界とは照応関係にあるように描きながらも、その区別ははっきり設けている。人間は100年も生きられないが、そのかわり不滅の魂というものを持っていて、死んでも天国へ行ける。一方で人魚は300年も生きるが、魂などというものは持っておらず、死ねば「海の泡」になって終わりだ。だから天国へも行けない。こういう区別が存在しているというのだ。

 こうした「区別」を乗り越えて人間になり、さらに王子と結ばれたいという人魚姫の願いは、そのように願うだけでも大罪である。神をも恐れぬ、ということだ。

 だから彼女は願いをかなえるために、魔女を頼らなくてはならず、しかも人間の足を手に入れるために、声を失うという代償を支払わされるのだ。

人魚姫が空気の娘に

「人魚姫」のこのあとの展開については大幅にカットして、結末に話を進めよう。人間となった人魚姫は、王子と出会うことはできたものの、結局この恋は成就しない。王子は隣国の姫との縁談が進むことになる。このままでは人魚姫は「海の泡」になってしまう。

 そこで今度は人魚姫の姉たちが現れる。魔女と取引をして短剣を手に入れたという彼女たちによれば、王子と隣国の姫の結婚式が行われる朝までに王子をこの短剣で殺せば、人魚姫は「海の泡」にならなくて済むというのだ。

 しかし、人魚姫は愛する王子を殺すことを拒否し、自ら「海の泡」になることを選ぶ。そして本当に「海の泡」となってしまう。

 これは一見、悲劇的な結末に見える。しかし、アンデルセンはこの物語をハッピーエンドにしたと思っているだろう。というのも人魚姫が「海の泡」となったあと、彼女の身には不思議なことが起きるからだ。「海の泡」になったはずなのに、どうも死んだような気がしない。どうやら彼女は「空気の娘たち」という存在になったらしいのだ。

 この「空気の娘たち」は人魚と同じく不死の魂は持っていないが、300年のあいだ善行をつめば、それを得られるのだという。

 単純なラブストーリーを期待している読者には、何だか釈然としない話なのだが、もともと人魚姫は人間と同じような「不死の魂」を得たいと考えていたのだから、これはある意味ではハッピーエンドなのである。

 ただし、これをハッピーエンドだと考えるのはアンデルセンの時代の話であって、現代人の共感を得るのは難しい。これをいかにして万人に受けるストーリーにするか。ディズニーの優秀なスタッフたちの腕の見せ所である。

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 第2回【「リトル・マーメイド」が瀕死のディズニーを救った 長編アニメは危機的状況だった】へつづく

※有馬哲夫『ディズニーの魔法』から一部を再編集。

デイリー新潮編集部

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