1790億円の詐欺で逮捕され、負債総額は4300億円… 浪速の女相場師「尾上縫」の実像

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“腕力相場”

 尾上縫は1930年の生まれで、出身は奈良県新口(にのくち)村(現在の橿原市新口町)。5人きょうだいの次女で、一家は貧しい長屋暮らしだった。

 自分では旧制奈良女子高等師範(現奈良女子大)卒だと語っていたが、そんな事実はなく、国民学校高等科を出るとすぐに地元の機織工場で働いた。大阪に出て来たのは15歳のとき。女中奉公やデパートの売り子をやり、ミナミの料亭で仲居として働いていたとき、大手住宅メーカーの会長が“旦那”になり、援助を受けて昭和40年に独立して「恵川」を開いた。

 それだけで、農村出身の貧しい女性の成功物語は完結していたはずだ。ただし彼女には「霊感」があった。「恵川」の客でもあった前出の眞島弘氏は、霊感の発露をこう記憶している。

「最初は、仲間内で行くパチンコ屋で、出る台を当てるので評判になった。次に店の料理人たちが週末に楽しむ競馬の新聞を見て、勝ち馬を当てるようになった。“競馬新聞を見ると、1着と2着に来る子(馬)がわかる。ゴールのシーンが目に浮かぶのよ”と聞いたことがあります。料理人たちも、最初は半信半疑だったのですが、あまりに当たるので、みな馬券を買う前に彼女に勝ち馬を聞くようになったんです」

 それが始まりで、彼女の霊感は、やがて株で発揮されるようになった。

 ある時、尾上から眞島氏に電話があり、住友化学の株はどうかと尋ねられた。彼が経済ジャーナリストだと知っていたからだ。コメントを控えると、翌日再び電話があり、「先生買いましたか?」と聞く。彼女が買ったというので、せいぜい千~2千株だと思い、株数を尋ねると10万株買ったという。眞島氏は驚き、その時点から“ただ者じゃない”と思うようになった。

 住友化学の株はその直後、40、50円ほど値上がりした。証券会社の支店長が飛んで来て「次はどの株にしましょう」と尋ねる。それが相場師への第一歩だった。

 時はバブル期である。大型の優良株は、黙っていても軒並み高騰した時期である。だが証券会社の営業マンたちは、尾上のもとに日参して、ありがたく“御託宣”を聞いた。なぜか? 眞島氏はいま、その理由をこう分析する。

「当時は“腕力相場”と言って、株価が動かないときなど、野村、大和、日興、山一という四大証券が手ぞろいで買うと、必ず株価が上がった。尾上の“御託宣”を聞いた四大証券が、その株を自前でも買い、提灯をつけて顧客に薦めれば、出来高も増えて、株価は当然上がる。霊感があるなしにかかわらず、尾上の周りには、そういう構造ができていた。だからある意味で、金融業界が彼女の“御託宣”を利用していたともいえます」

 女相場師になる前、尾上は高野山金剛峯寺の報恩院で得度している。僧名は「純耕」。信仰には熱心で、インドにあるチベット難民キャンプに、日本人篤志家が建てた寺の落慶法要ツアーに参加。その寺のために2千万円ほど寄付し、ダライ・ラマから謝辞を受けたという話もある。ガマガエルの信仰は、彼女の母親から受け継いだものらしい。

 果たして神懸かりはあったのか、なかったのか。いずれにしても、バブル崩壊の前ではどんな力も無力だった。事件の後、巨額の融資を行った東洋信用金庫は経営破綻した。

 刑を務めた後の尾上縫の消息はあまり知られてない。亡くなったのは2014年だとされ、墓は生前に彼女が建てた高野山の墓所、奥の院にあるという。

デイリー新潮編集部

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