江夏豊「広岡達朗に“死に場所”をとられた」…引退発表後に前代未聞のメジャー挑戦

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「1000登板をしてみたかった」

 ソフトバンクを戦力外になった松田宣浩の巨人移籍が決まる一方、現役続行を希望する前中日・平田良介、前巨人・山口俊の移籍先がまだ決まらず、今オフもベテラン選手をめぐるさまざまな“人間ドラマ”がクローズアップされている。【久保田龍雄/ライター】

 そんな野球人生の晩年において、「自分は力が衰えて引退するのではなく、日本国内に自分を使いこなせる球団がないからだ」とアピールするように、前代未聞のメジャー挑戦という形で、自らの野球人生にけじめをつけたのが、1985年春の江夏豊である。

 前年の西武時代の夏、広岡達朗監督から体調不良を理由に2軍調整を命じられた36歳のレジェンド左腕は、自著「左腕の誇り」(新潮文庫)によると、「自分としては、まだまだ3、4年はやれると思っていたし、僕にはそのときの数字の目標があった。(通算)1000登板をしてみたかったんです」と、あと「171」に迫った大目標に向けて意欲を燃やしていた。

 NPB史上初の通算200セーブもあと「9」、通算3000奪三振もあと「13」と目前にしており、どちらも1軍に復帰すれば、シーズン中に達成可能な数字だった。だが、その後、1軍からは再登録の打診すら1度もなかった。2軍監督は「お前は可哀相な男だ。よっぽど広岡に嫌われているんだな」と同情した。

ブルワーズとマイナー契約

 その言葉を聞いて、「プロ野球界はつまらん。こんな世界なら、もういいや」と踏ん切りをつけた江夏は、2軍のままシーズンを終えると、11月12日に現役引退を発表。「ふつうなら任意引退なんだけど、自分の好きな道を選んで自由契約にしてもらった」と異例の選択をする。

 そして、「日本の野球界を見返してやる」と12月27日、ブルワーズとマイナー契約を結び、野球人生の最終章でメジャーに挑戦する道を選んだ。それは「自分の納得できる場所でもう1回投げてみたい」という“死に場所”を求めての行動でもあった。

 翌85年2月上旬に渡米した江夏は、自主トレで体を慣らしたあと、同20日、テスト生としてブルワーズのスプリングキャンプに参加。開幕までに10人の投手枠に入ることを目標に、26人のライバルたちとしのぎを削った。

 背番号68を着け、フリー打撃や紅白戦で4度登板した江夏は、外角低め一杯に抜群の制球力を見せ、174打数18安打、被安打率.103の好投。「今のオレは“野球をやっているんだ”という心境になっている。やり甲斐がある」と充実した表情を見せた。

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