幼い娘の死、借金地獄… アントニオ猪木に翻弄された「5人の女性」とは

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 英雄か愚者か。昭和史に鮮烈なる“光と影”の軌跡を残したアントニオ猪木。米国での武者修行、プロレス団体旗揚げ、借金問題、政治家への転身、難病との闘い――。79年間の人生で時々の艱難辛苦にともに立ち向かい、翻弄されたのは「5人の女たち」だった。

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 2年前に難病の「心アミロイドーシス」を患っていると告白した猪木。以来、闘う相手は病だった。

 亡くなる前日の9月30日には死期を悟ったか、弟の啓介氏(74)を東京・港区の自宅マンションに呼んでいる。啓介氏が言う。

「部屋に入ると“ドアを閉めろよ”と口にしたので、何か大事なことを言おうとしたのだとは思います。でも、それ以上、喋る力が残っていなくて……」

 そのときが最後の別れになった。

 アントニオ猪木、本名・猪木寛至は戦時下の1943年2月20日、父・猪木佐次郎、母・文子の子として神奈川県横浜市に生まれた。きょうだいは全部で11人、猪木は9番目で六男。父親とは4歳で死別している。

 大黒柱を失って貧困を窮めた一家は新天地を求め、ブラジルに移住。猪木は14歳にして移民1世となった。

運命を決した最初の女性

 転機が訪れたのは17歳のとき。サンパウロの青果市場で働いていたところ、遠征中の力道山から日本プロレスにスカウトされたのだ。

 その道へと進んだ猪木は力道山の死から3カ月後の64年3月、21歳で武者修行のため渡米する。各地を転々としながら「トーキョー・トム」「ナガサキ」などのリングネームで戦った。

 そんな日々を送る中で出会ったのが米国人のダイアナ・タックさんだ。彼女との巡り合いがなければ「アントニオ猪木」は生まれなかったと言っていい。彼女こそは猪木の運命を決した最初の女性、ということになろう。

「猪木はスペイン系米国人の彼女とクリスマス・パーティーで知り合いました」

 とは事情に通じた知人。

「事実婚だったのですが、彼女と暮らし始めてから、猪木は現地でメインを張れるレスラーへと成長しました。自信がついたのでしょう。先輩から名付けられたアントニオ猪木というリングネームを本格的に使用し始めたのはその頃です」

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