エミー賞6冠「イカゲーム」は結局何がすごかったのか

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格差社会・韓国らしいドラマ

 笑いと恐怖を絶妙にミックスしたシュールな世界観を、これほどまでに徹底して作り上げた韓国ドラマを私は見たことがない。「イカゲーム」は、Netflix配信の韓国ドラマでも、ひときわ異彩を放っているのだ。

 その一方で、これほど韓国らしい作品もないようにも思う。

「歴史上稀にみるほどの搾取階級」ともいわれる両班(貴族階級)が支配した李氏朝鮮の時代から、日本のように財閥が解体されなかった戦後、そして現在に至るまで、韓国には激烈な格差が存在する。こうした社会の理不尽さを映画やドラマの中で、エンタテイメントと融合させ描くことは韓国のお家芸なのだが、「イカゲーム」はそれが最も成功した作品のひとつだ。そこで描かれるのは「勝ち負け」によって二分される新自由主義的な世界の縮図である。

 多重債務者である参加者たちは「自分が生き残るためには他者を殺さなければならない」というルールに支配され(つまり信じ込まされ)、やがては他者を見捨てることに少しも罪悪感をいだかなくなっていく。ゲームの運営責任者「フロントマン」がこの世界の正しさとして強調するのは「機会の平等」だ。だが、ゲームは体格的、体力的に優位な人間に有利なものがほとんどだし、性別や年齢はもちろん、立場上知りえる(もしくは知りえない)情報などによって冗談みたいに有利にも不利になる。「年齢性別関係なし、20キロの米俵担いで100m走」がこれっぽっちも平等ではないのと同じだ。

「パラサイト」との共通点

 さらに「イカゲーム」の世界の巧妙さは「参加者の過半数が反対すれば、ゲームは中止できる」という設定が用意されていることである。

「だるまさんが転んだ」の大虐殺に仰天した参加者たちは、多数決によってゲームをキャンセルし、一度は元いた「外の世界」に帰ってゆく。だが借金まみれの彼らにとって、結局は「外の世界」も同じ地獄でしかなく、多くの者はゲームに舞い戻る。「フロントマン」は、「ここで死んでも、それはお前たちが自分で選んだこと=自己責任」とのたまうが、実際のところ、何の受け皿もない社会で極限まで追い詰められた彼らには、それ以外の選択肢がないのである。

 こうした「緑ジャージ」のつぶし合いに加えて、「ピンクつなぎ」の連中の存在も効いている。彼らは「緑ジャージ」の生活一切を管理し、ゲームの最中には失格となった者をその場で射殺する役割を担っている。

 この「ピンクつなぎ」の連中がどのように集められたか、その詳細はシーズン1では明らかにされてはいない。だが彼らもまた、なんらかの理由で行き場を失い、集められてきたものであることは想像に難くない。というのも、施設内で生活の一切を管理され、同じ制服を身に着け、名前でなく番号で呼ばれ、さらには「顔」まではく奪されている(マスクを取ったらその場で射殺される)という点において、彼らは「緑のジャージ」とさして変わらないのだ。にもかかわらず「ピンクつなぎ」に与えられた「管理者」という地位は、彼らに階級を意識させ、さらに上の支配層に都合のよい階級システムを補強するものとして機能してしまう。

 その意味で「イカゲーム」が描くものは、2020年にアカデミー賞を獲得した韓国映画「パラサイト 半地下の住人」とほぼ変わらない。「半地下の住人」は「地下の住人」を見て「自分は絶対にあんな人間のクズではない」と蔑み憎むが、地上の人間からしたらどちらも大して変わらない「人間のクズ」であり、蔑みの対象でしかないのだ。

 そんな世界に飲み込まれまいとする主人公のソン・ギフン(イ・ジョンジェ)は、意識的か無意識か、それぞれの参加者に何度も名前を尋ねる。それは相手が番号ではなく、たったひとつの人生を生きる「人間」であることを思い出させる行為なのである。

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