「引退」内海哲也に、巨人と西武の争奪戦勃発も 「西武でたった2勝」でも“一生安泰”の処世術

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悪役イメージとは無縁

 プロ野球・西武の内海哲也投手(40)が8月16日に今季限りでの現役引退を表明した。球団の公式ホームページ上に発表した「今の気持ちは『やりきりました』の一言です。すべてがいい思い出で、本当に幸せな野球人生を送らせてもらいました」とのコメントに人柄がにじんだ。通算成績はこの日まで135勝104敗、防御率3.24。大投手にはなれなかったが、古巣の巨人でも西武でも選手、監督、コーチらに引退を労われた。フリーエージェント(FA)の人的補償で移籍した西武では、外様にもかかわらず今季、投手コーチを兼任するまでに信頼を置かれた。その処世術を探ると――。【津浦集/スポーツライター】

 プロ入りは波乱含みだった。福井・敦賀気比高時代の2000年にドラフト会議でオリックスに1位指名を受けながらも、巨人で野手だった祖父の五十雄さんと同じ球団でのプレーを希望し、入団を拒む。04年に自由獲得枠で巨人入りを果たし、悲願を成就した。

 入団後、最初の2年は0勝、4勝と伸び悩んだものの、06年に一気に12勝を挙げてブレークした。同年の春季キャンプでは巨人OBで、同じ左腕でもある400勝投手、故金田正一さんを「カネムラさん」と呼び間違えたことが話題を呼ぶなど、当初は「色もの」扱いされた。

「江川(卓)、元木(大介)と、ドラフトで他球団の指名を拒否して巨人に入ってきた選手にはダーティーなイメージが付きまとっていた。彼らは入団までに回り道をし、入団時にも余計なプレッシャーを背負い、相手選手には目の色を変えてつぶしにこられた。本来の力を100%発揮できなかった印象がある」(遊軍記者)

 ところが、内海は不思議と負のオーラとは無縁だった。

「注目度が高い巨人では珍しく、メディアにも壁をつくらない選手だった。担当記者間でも『いじられキャラ』で通っていて、スポーツ紙記者はネタがない休日などの原稿に重宝していた」(当時の番記者)

 その一方、06年からは3年連続2桁勝利。11、12年はそれぞれ18勝、15勝で2年連続最多勝に輝き、特に12年は日本シリーズで2勝、最高殊勲選手選出と、キャリアの絶頂を極めた。リーグ優勝は実に6度経験。

「06年からの第2次原政権下の大黒柱となり、堀内(恒夫)監督の暗黒時代からの立て直しに貢献した。年を重ねるにつれ、若手投手への模範にもなっていった」(同)

炭谷のFA移籍による「人身御供」

 しかし、14年が7勝に終わると、故障も重なり、成績は徐々に落ち込んでいく。そして18年オフ、巨人にFA移籍した炭谷銀仁朗の人的補償として西武に移籍した。鳴り物入りで巨人入りした左腕が「人身御供」になった。

「巨人は選手層が厚かった。他球団では28人のプロテクト選手名簿に載っても、巨人では外れてしまう。本人、球団共に厳しい決断だった。この経緯があるからこそ、巨人は内海をないがしろにはできない」(元NPB監督)

 かつてFAで豊田清を獲得した際の人的補償として江藤智が西武に移籍し、引退後にコーチとして呼び戻した。選手を“使い捨て”にする印象が強い巨人だが、チーム事情で犠牲になった場合は、実は手厚い。

「巨人はたくさんのFA選手を獲得してきた分、人的補償は球界で最も多い14人の放出を余儀なくされた。人的補償はチームへの献身も意味する。内海も何らかの形で復帰させることが既定路線だと囁かれている。(内海と同じオフに丸佳浩のFA移籍で広島に移籍した)長野久義も同様。しかも2人とも他球団のドラフト指名を拒否してまで“巨人愛”を貫いてきた。内海は早ければ来季にも巨人がコーチとして迎え入れるのではないか」(遊軍記者)

 内海は引退発表の数日前、原辰徳監督には自らの決断を伝えている。

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