終戦後もアメリカは原爆を落とそうとしていた【公文書発掘】 

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原爆投下はソ連対策

 アメリカ政権幹部は、

(1)原爆を無人島に投下する
(2)軍事目標に投下する
(3)一般市民の多くいる大都市に投下する

 という三つの選択肢を検討し、それとは別に

(A)警告したのち投下する
(B)無警告で投下する

 という二つの選択肢を検討していた。

 原爆開発に関わった科学者の大多数は(1)を推した。アメリカ陸軍幹部は(2)と(A)の組み合わせを大統領に勧めた。とくに陸軍の制服組トップであるジョージ・マーシャル参謀総長は、爆撃ですでに無力化した軍事的拠点に警告して投下することを提案した。これなら、無差別大量殺戮にはならず、ぎりぎり戦争犯罪にならないと考えたからだ。

 しかし、原爆と原子力の利用について重要事項を審議する「暫定委員会」で、(3)と(B)の組み合わせにするという結論が出た。わざわざ最も人的被害が出る使い方を選んだのだ。

 その理由を原爆開発に関わった物理学者レオ・シラードが暴露している。暫定委員会でこの決定がなされる3日前、彼はジェイムズ・バーンズと会ったのだが、そのときのことをこう日記に記している。

「バーンズは戦後のロシア(ママ)の振る舞いについて懸念していた。ロシア軍はルーマニアとハンガリーに入り込んでいて、これらの国々から撤退するよう説得するのは難しいと彼は思っていた。そして、アメリカの軍事力を印象付ければ、そして原爆の威力を見せつければ、扱いやすくなると思っていた」

 バーンズは暫定委員会に大統領の代理人として出席していた人物で、7月3日に国務長官となり、ポツダム会談の主要人物となっていく。大統領代理として暫定委員会に出ていたのだから、これはトルーマンの考えと思っていいだろう。

 このことは日本人にとって、とくに広島、長崎の原爆犠牲者にとって重大な意味がある。つまり、アメリカが最も残酷な原爆の使い方をしたのは、ソ連に強烈なインパクトを与えて「扱いやすくする」ためだったということだ。

 これは、原爆投下を「100万人ものアメリカ兵の命を救うため」、あるいは「戦争終結を早めるため」としているアメリカ政府の公式見解を根底から覆すものだ。つまり、原爆は、「真珠湾でだまし討ちをした日本にきつい罰を与える」(トルーマンの口癖)というより、ソ連に「目に物を見せ」、「扱いやすくする」ために無辜の市民たちの上に投下されたということだ。

 そもそも、これも前掲書で書いたことだが、原爆投下と日本の降伏とは関係がない。だから韓国人が「原爆投下が朝鮮人を解放した」と思い込んでいるのは大間違いだ。

 昭和天皇の御聖断は、ポツダム宣言を受諾しても国体の維持が可能であるというスイスやスウェーデンからの情報を得てなされたものだ。国体の維持の確証がなければ、いくら焼け跡に原爆を落としても(それも3都市くらいしか候補地は残ってなかったが)天皇の御聖断とそれによる終戦はなかった。

 さて、本題に返って、広島・長崎に原爆投下したあと、アメリカ政府幹部と陸軍幹部が具体的に何を計画していたのかを示す歴史資料を紹介しよう。タイトルは「(原爆、その)保有・蓄積・軍事的特徴」(Stockpile, Storage, Military Characteristics)で、日本が降伏したあとも、224発を目標に原爆製造を続け、それらを使ってソ連と満州の主要都市を壊滅させる計画が記されている。この文書については、すでにオタワ大学名誉教授のミッシェル・チョッスドヴスキーが論文で一部触れているが、私は日本人の視点から見ていきたい。

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