【鎌倉殿の13人】ヤクザの手口で愛妾を強奪、母親からも酷評… 史書でみる「源頼家」の実像とは

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梶原景時追放には別の狙いも?

 実朝擁立の思惑に気づき、頼家に報告したのが情報通の景時である。景時は「鎌倉殿――」の第28話で鎌倉を追われた。『吾妻鏡』には景時追放の理由は結城朝光(高橋侃)に関する悪意の告げ口だと記されている。

 朝光に謀反の動きがあると頼家に報告した。これに御家人たちが怒り、66人が署名する景時の弾劾状がつくられた。「鎌倉殿――」第28話の通りである。

 だが、『玉葉』は見方が異なる。切れ者で情報通の景時が邪魔だから、時政たちが朝光の件を使って追放したと捉えている。

 男子が複数いると、頼朝一族でなくても跡目争いは珍しくない。頼朝には頼家、実朝以外にも男子がいた。「鎌倉殿――」には登場しなかった貞暁である。

 頼朝が寵愛した御所の女官・大進局が、1186年に出産した。政子との女子・三幡(東あさ美)の出生と同じ年である。頼朝の好色はブレない。

 頼朝の子でありながら貞暁の誕生時には困ったことが起きた。乳母のなり手がいなかったのである。みんな政子を恐れた。さらに貞暁は5歳になった1191年に頼朝の一存で出家させられる。京の仁和寺に預けられた。これも頼朝が政子の怒りを恐れてのことだった(『吾妻鏡』)。

 仏門に入った貞暁は血生臭い世界と縁が切れたものの、運命はめぐる。頼家の次男で1219年に3代将軍・実朝を暗殺した公暁(寛一郎)は貞暁の弟子の1人だった。公暁は頼家と正室・辻殿(北香那)の間の子だ。

 公暁は12歳で出家。近江国(現・滋賀県)の園城寺で僧侶になったものの、貞暁の教えも受けていた。ただし、2人の間に実朝暗殺の共謀はない。後に政子が貞暁に帰依し、一緒に頼朝の供養をしたほどである。

頼家の行政能力、武芸の腕

 さて、「鎌倉殿――」での頼家は自分の行政能力に自信満々だが、実際はどうだったのだろう? 『吾妻鏡』に頼家による土地問題の裁定が記録されている。

 陸奥国葛岡(現・宮城県大崎市)の新熊野神社の僧が、土地の境界線について、地頭の畠山重忠(中川大志)に裁定を求めてきた。1200年のことだ。新熊野神社は幕府と縁が深いため、重忠は頼家に裁定を頼んだ。

 頼家はこの土地の絵図を用意させた。当事者の話は聞かず、現地調査もしないまま、その絵図の中央に線を引き、新たな境界線にしてしまった。

「土地が広いか狭いかは運次第。以後の境界争いはすべてこのように決める。不服があるならば訴訟など起こさぬこと」(『吾妻鏡』)

 まるでバカ殿だ。ただし、武芸には秀でていた。『愚管抄』は「古今に並びなき腕前の持ち主」と絶賛している。鎌倉時代の軍記物語『六代勝事記』にも「百発百中の芸に長じて」とある。

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