【日韓関係】ゴールポストが次々に移動する 日韓関係悪化と韓国メディアの責任

国際 韓国・北朝鮮

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 韓国で5年ぶりの保守政権が発足して1カ月。新大統領の尹錫悦(ユンソンニョル)氏は、外交政策を大幅に修正しつつある。ゴールポストが次々に動かされ続けてきた日韓関係の正常化は果たして可能なのか。日本外交の大きな課題について、『危機の外交 岡本行夫自伝』から2回に分けて紹介する。

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 島根県隠岐島から158キロ、韓国の釜山から339キロのところに、竹島という無人の島がある。韓国はこの島を独島と呼ぶ。

 日本の目からすれば、17世紀から領有していた竹島は固有の領土だ。韓国側が主張する領有権の根拠は、終戦後の1952年に日本が敗戦によって全ての能力を失っていた時に李承晩大統領が一方的に領有を宣言して守備隊を常駐させた不法占拠であり、米国も日本の領有権を認めている(注:サンフランシスコ講和条約の起草にあたりアメリカは竹島は日本の固有の領土と考えている旨を通告した)。

 2019年8月25日、韓国軍は、この島を防衛する大規模な演習を行った。武力衝突を想定する相手は日本である。

 アメリカは日本とは日米安保条約を、韓国とは米韓相互防衛条約を結んで、二つの国を外部からの侵略に対して守ることになっている。侵略があればまず動くのは、それぞれ、在日米軍と在韓米軍だ。しかし韓国が日本との政治的な対決気運を高めていけば、米国はどちらに対する防衛義務を優先して考えるか。在韓米軍が韓国に加勢して竹島を守り、日韓軍事対決がエスカレートすれば在日米軍が日本に加勢する? 日韓が協調関係にある限り話題にも上らないテーマであるが、現在の日韓関係の行く末はこのような議論を顕在化させる恐れすらある。そして、軍隊はあらゆる緊急時対応計画(コンティンジェンシー・プラン)を作らなければならない。

 日韓が武力対決したときにアメリカは韓国の側に立つ……。このようなことが仮にも日本国民の意識に想起されるような事態になれば、日本国民の日米同盟に対する意識の変化に日米両国は取り組まなければならなくなる。

さらに困難な隣人・韓国

 日本と韓国の間には、日中間以上に複雑な「歴史問題」が存在する。

 日本は、1910年8月の「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス」と記した日韓併合条約によって朝鮮を併合し、朝鮮民族を「帝国臣民」となし、日本人としての義務を課した。朝鮮人の名前を日本名に変えさせ、朝鮮語の使用を禁じ、宗教すらも日本の神道を強制した。つまり、すべての朝鮮人を日本人同様に「天皇の赤子」にするという政策であったが、同じ日本人といっても、日本人は「内地戸籍」、朝鮮人は「朝鮮戸籍」と区別されていた。結局は日本に都合の良い「日本人」を朝鮮半島につくることを目的としたものであった。皇民化政策とは、朝鮮民族の独自性と文化を否定し、朝鮮人を最下層の日本人として押し込めるための政策であった。

 中国での戦時中の日本の行動の本質は、物理的な侵略と戦争行為であり、多くの市民が犠牲になった。

 一方、朝鮮半島においては、日本は反日運動家たちを弾圧はしたが、一般市民への暴挙は中国で行ったものに比べれば際立って少なかった。形式上は、朝鮮人も「日本人」とされていたからだ。そのために、日本人の中には日本が朝鮮で犯した罪についての意識が十分でない。日本が行おうとした本質は、国家としての朝鮮の抹消であった。日本は1910年から45年まで朝鮮という国家と民族のアイデンティティーを抹殺したのである。

 こうした経緯にもかかわらず、日韓関係が大きく前進するとの希望が生まれていた時代もあった。韓国大統領は金大中であった。

「過去のページを閉じて共同で新しい時代に向かう」

 98年の日韓共同宣言には「小渕恵三首相が韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたことに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べ、……金大中大統領はこれを評価し、未来志向的な関係を発展させることを表明した」と記された。

 金大中が「過去のページを閉じて共同で新しい時代に向かう」と宣言した日本の国会での演説は感動的であった。金大統領のもとで、韓国では長らく輸入や視聴が禁止されていた日本文化が解禁される一方、日本社会では韓国のテレビドラマや映画スターに対する人気が高まった。2002年には、サッカーのワールドカップが日韓共同で開催された。日韓が最終的な和解のプロセスに向かい始めたとの期待すら生まれていた。一時的とはいえ、日韓の間にも最終的には和解が可能であるとの思いを人々に抱かせた点で、金大統領の功績は大きい。

 しかし、その後、日韓関係はますます冷え込んでいった。

 後継の盧武鉉(ノムヒョン)大統領は金大中大統領の築いた日韓関係を完全に破壊してしまった。彼自身が反日的な人間であったとは思わない。盧武鉉大統領が2003年に来日したとき、小泉首相の補佐官だった僕は大統領の隣に座るという幸運に恵まれ、かなりの時間二人で話ができたが、むしろ親日的な人であるという印象さえ受けた。アメリカに対して日本を共通の仮想敵国とすることを提案するなどのその後の彼の行動は、純粋に国内政治上の計算によるものであった気がする。 

 韓国との修好は、日中関係以上に難しい。中国の場合、尖閣にしても歴史問題の処理にしても、先方が日本への要求をエスカレートする時の意図は明らかである。例えば2005年の反日暴動を中国政府があおったのは、日本の安保理常任理事国入りを妨害するためであった。09年の暴動は尖閣諸島問題で優位に立つためであった。だから、日本が中国の要求を受け入れられるかどうかは全く別にして、反日政策の見通しと中国への対応策は、理屈の上では立てやすい。

 韓国の場合はそうではない。日本に対する韓国の行動の根底にあるのは、国家利益ではなく、「恨(ハン)」と呼ばれる日本への怨念である。だから韓国の行動は予測がつかない。日本の韓国外交の難しさは、一度両国間で決まったことでも次の政権が容易にこれを否定することだ。ゴールポストは次々に移動する。

 歴代の大統領が国内で日本非難を繰り返し日韓関係を冷却化させていることは、日本との補完的な経済関係を考えれば韓国の国益にかなう話ではない。だが、金大中以外の韓国大統領は、国民を反日の方向にリードすることで国内の支持率を高めてきた。

 韓国にとって、日本は心理的に本来の比重以上の部分を占める。日本はベンチマーキングの相手である。成功とは日本に勝つこと、失敗とは日本に負けることだ。

 中国も日本と同じように韓国を征服してきた。朝鮮戦争の時には「中国義勇軍」が攻め込んで、朝鮮半島から韓国を抹消する直前までいったが、不思議なことに、韓国の恨みは中国には向かない。「事大主義(強いものに迎合することにより自己実現を目指す行動様式)」のせいかもしれない。恨みは常に日本に向けられる。朴槿恵大統領は就任直後の2013年3月1日の独立運動記念日に、「加害者と被害者という歴史的立場は千年の歴史が流れても変わることはない」と演説し、そのあと韓国で「千年恨」という名前で反日運動が加速化した。

 若者たちは、教育によって反日感情が作られる上に、メディアによってさらにあおられる。感情の振れの激しい韓国の場合、特にメディアの責任は大きい。日本での出来事は細かく報じられるが、最初からかかっているバイアスのために、ほとんどジョークのような報道になることも少なくない。

 2013年5月5日、安倍首相は人気野球チームの読売ジャイアンツの始球式に背番号「96」のユニフォームを着て登場。日本の第96代の総理大臣である安倍首相に読売ジャイアンツが贈ったものだったが、韓国のメディアは、これは憲法96条(憲法改正の手続きを定めた条項)を改正し軍国化を容易にするための安倍首相のキャンペーンだと報じた。

 朴槿恵大統領も、その年の10月にソウルで韓国シリーズの野球試合の始球式に立った。彼女のユニフォームには背番号はついていなかったが、彼女も韓国メディアに攻撃された。履いていたスニーカーが日本製だったからだ。

 始球式の1週間後の5月12日、安倍首相は東日本大震災の復興状況を視察したあと、被災地の東松島にある航空自衛隊基地で練習機T-4のコックピットに乗り込んだ。しかし、その機体番号は「731」。韓国の新聞は、安倍首相が悪魔の731細菌部隊を顕彰する飛行機に乗り込んで、またもや日本の軍国主義を強調したと報じた。安倍首相は乗り込むときに機体番号など見もしなかったし、この飛行機はアクロバット飛行を行う有名な第73飛行中隊に所属し、その隊長機であるので中隊番号の次に「1」が付いただけのものであった。

漢江の奇跡――韓国の大躍進

 韓国の恨みが中国に向かないのは、朝鮮戦争のあと、韓国が中国より先に大成長をとげたからかもしれない。朴正煕政権下で1962年から経済危機が起きる97年までの36年間の年間成長率は8.9%、GDPは27億ドルから5600億ドルに拡大した。200倍以上だ。

 ベトナム戦争で特需が生まれ、サムスンや現代(ヒュンダイ)などのチェボルと呼ばれる財閥が、政府から減免税、補助金、低利子の政策資金などの全面的な支援を受け、国の産業構造は農業中心から軽工業に進み、1970年代には紡績、セメントから石油化学、自動車、家電、造船、製鉄などの輸出志向の重化学工業へと拡大していった。これが「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる韓国の大躍進である。漢江とはソウル市内を流れるおおきな川のことだ。

 中国同様、日本への感謝の意は表明されなかったが、日本の韓国に対する経済援助は1990年までの累計で6700億円を超え、「漢江の奇跡」を大きく支えた。

 こうして韓国は驚異的な発展を遂げたが、依然として脆弱性もつきまとう。最大の理由は経済が財閥に支配されていることだ。そして政策的には、国威発揚につながる派手な輸出産業を過度に重視し、輸出依存度は42.9%にまで達しているが(日本は14.7%)、国内需要は弱いままだ。

 韓国では、産業ピラミッドの下部を支える中小企業が育っていない。だから、部品は日本からの輸入に頼らなければならないし、裾野の広い中小企業が存在しないから、若者の就業先が少ない。韓国全体の失業率は3.1%だが、29歳以下の失業率は8.2%である。若者の就業機会が少ないから、韓国は激烈な競争社会になっている。その中で若者は「ハングリー精神」を持つことになり、これが韓国の活力となっている反面、財閥に就職できない若者は惨めな状況に置かれてしまいがちだ。

 一方、日本側の企業には、韓国が不公正なやり方で日本から技術を持っていったとの思いが根強い。明治以降、欧米列強に追いつくために必死で欧米のシステムや技術を導入してきた日本は中国と韓国を批判できないが、問題はそのやり方だ、と日本のビジネスマンたちは言う。エピソードは無数にある。

 僕が直接知っている例を挙げよう。僕が長年、社外取締役を務めていた三菱マテリアル社は、切削工具を製造している。超硬度のタングステンを焼結してどのような金属でも切削できる硬い刃を作るもので、韓国の企業はこの技術が欲しくて仕方がない。三菱マテリアル社は、もちろん渡さない。そこで韓国の企業が目を付けたのは三菱マテリアル社にその製造装置を納入している下請けメーカーである。ある日、そのメーカーに韓国から大量の買い注文が来た。喜ぶその中小企業に出された韓国の要求は、「これだけの大規模買付をする以上、その性能を詳しく知る必要があるので設計図を出してもらいたい」。最初は難色を示したが、大きな儲けの誘惑には勝てず、設計図を差し出した。それが相手の韓国企業との最後のやりとりとなった。

 一時期ソウルには4千人の日本人電子技術者がいたという。日本の大手電子メーカーから引き抜かれたり、現役のまま高額の謝金で招聘された人々である。日本の企業はこの技術流出に頭を痛め、社員のパスポートをチェックするところもあった。週末にソウルを往復している技術者たちが調べられた。こうして研究・開発予算を使わずに済んだ韓国の電子メーカーはその資金を生産設備に投入し、規模の経済によってコストを引き下げて日本メーカーを打ち負かした。これが日本のビジネスマン側の遺恨である。

 もっともそれは90年代の話で、今の韓国メーカーは見事に自前の技術と能力で日本のメーカーを凌駕している。

 最近、僕は韓国の蔚山(ウルサン)にある現代造船所を見学し、脱帽した。

 以前はドライドックの中に全ての材料を持ち込んで船を組み立てていたが、現在は船をブロックごとに建設して、それをドライドックで溶接して船を造る工法に変わっている。それも日本の技術だが、韓国は大型の造船工場を造ることによって、より大きなブロックを建造し、それをドライドックまで運びこんでいる。ドライドック内で組み立てるブロックの数が少なくなるので、溶接部分も少なくなり工期も短縮できる。片付いてきれいな工場は日本のそれと変わりない。

 確かに技術の種(シーズ)のほとんどは日本からのものだ。お人よしの日本人は1970年代と80年代に懇切丁寧に韓国のエンジニアたちに造船技術を教えてやった。造船技師だった僕の兄も、韓国から研修に来ていた技師たちを指導した話をよくする。

 その後、技術を体得し、それを最先端の造船プロセスに組み入れてさらに改善していったのは、韓国人自身の努力だ。日本側の思い込みに反し、韓国の溶接工や塗装工の賃金は日本より高い。設計とデザインに携わる人間の数が多いことによって船主からの要望に柔軟に対応しているという。日本に比べて政府からの保護が手厚いことは韓国の大きなアドバンテージであるが、なによりも、工場全体にチャレンジ精神と旺盛な士気がみなぎり、従業員の顔が輝く光景に僕は舌を巻いた。1980年代以降日本から失われてしまったものだ。

 造船王国はこうしてイギリスから日本へ、そして韓国へと移り、今は中国が韓国の地位を脅かしている。国家の競争力は、いかに時代と技術の趨勢(すうせい)を見極め、新しい投資、あるいは産業転換を図っていくかにかかっている。

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『危機の外交 岡本行夫自伝』より一部を抜粋して構成。
岡本行夫(おかもとゆきお)(1945-2020)
1945年、神奈川県出身。一橋大学卒。68年、外務省入省。91年退官、同年岡本アソシエイツを設立。橋本内閣、小泉内閣と2度にわたり首相補佐官を務める。外務省と首相官邸で湾岸戦争、イラク復興、日米安全保障、経済案件などを担当。シリコンバレーでのベンチャーキャピタル運営にも携わる。2011年東日本大震災後に「東北漁業再開支援基金・希望の烽火」を設立、東北漁業の早期回復を支援。MIT国際研究センターシニアフェロー、立命館大学客員教授、東北大学特任教授など教育者としても活躍。国際問題について政府関係機関、企業への助言のほか、国際情勢を分析し、執筆・講演、メディアなどで幅広く活躍。20年4月24日、新型コロナウイルス感染症のため死去。享年74。

デイリー新潮編集部

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