デストラーデ、ホーナー…まさに救世主!途中入団で大活躍した助っ人3人の驚くべき成績

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ヤクルト本社の株まで急騰

「残り物には福がある」の典型例と言えるのが、87年にヤクルト入りしたボブ・ホーナーである。前年ブレーブスで打率.273、27本塁打、87打点を記録したホーナーは、オフにFAとなったが、各球団オーナーが年俸高騰を抑止する“FA締め出し作戦”で足並みを揃えた結果、どこからも声がかからず、“浪人”となった。

 そんな矢先、ヤクルトがダメ元で年俸約3億円を提示したところ、首尾よく交渉がまとまった。ブレーブス残留の場合、年俸1億5000万円程度に抑えられるという事情からだった。かくして、当時は珍しかった現役バリバリのメジャーリーガーの来日が実現する。

 5月5日の阪神戦、3番サードで登場したホーナーは、3打席目に仲田幸司から右翼ポール際に来日1号を放つと、4試合で11打数7安打の6本塁打と打棒爆発。その活躍ぶりは「黒船襲来」にたとえられ、ヤクルト本社の株が急騰するなど、社会現象にもなった。

 だが、背番号と同じシーズン50本塁打も楽々達成できるかに見えた勢いも、体力を消耗する梅雨に入ると、徐々に失速。発熱や腹痛を理由に試合を休み、7月には腰を痛めて1ヵ月近く戦列を離れた。それでも、最終的に打率.327、31本塁打、73打点を記録したが、“日本式野球”になじめず、1年で「サヨナラ」となった。

“カリブの怪人”

 西武の黄金時代に貢献した“カリブの怪人”オレステス・デストラーデも、来日初年度はシーズン途中入団だった。

 4年連続リーグVを目指した89年の西武は、前年38本塁打を記録した左打ちのタイラー・バークレオ(本名タイラー・バンバークレオ)が不調に陥り、Bクラスに低迷。首位・オリックスに最大10ゲーム差をつけられた。打線のテコ入れのため、白羽の矢が立ったのは、前年パイレーツで36試合に出場したデストラーデだった。

 6月7日に来日したデストラーデは当初2軍だったが、同18日、前日のダイエー戦でダメ押しの6号ソロを放ったバークレオと入れ替えで1軍に抜擢された。左腕の先発陣を揃えたオリックス、近鉄との連戦を前に、「スイッチヒッターのデストラーデのほうが有利」と森祇晶監督が判断したのだ。

 そして、6月20日のオリックス戦、5番DHで出場したデストラーデは、3回に左腕のガイ・ホフマンから来日1号2ラン。日本の投手に慣れた7月6日から14日までの7試合で6本塁打と固め打ちし、清原和博のあとの5番に定着した。

 8月13日のオリックス戦では、9回に清原の押し出し四球で追いつき、なおも2死満塁で、佐藤義則の初球カーブを狙い打ち、劇的なサヨナラ満塁本塁打を放っている。

 同年は0.5ゲーム差でV逸も、デストラーデは83試合で32本塁打を記録。翌90年から3年連続本塁打王に輝いた。本塁打を放った直後、「BOOM!」と叫んで左手をグイッと伸ばす独特のガッツポーズは人気を呼び、多くのファンが真似をした。

 西武といえば、14年4月末に入団したエルネスト・メヒアも、来日初打席でいきなり本塁打を放つなど、106試合で34本塁打を記録し、チームメイトの中村剛也とタイトルを分け合った。シーズン途中入団の外国人が本塁打王を獲得したのは、NPB史上初の快挙だった。

 今季も新戦力獲得期限までに思わぬ“掘り出し物”が現れるだろうか。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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