【鎌倉殿の13人】頼朝はなぜ義経を切ったのか 共に冷酷だった2人の決定的な違い

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 源義経は日本人にとってヒーローだったが、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で菅田将暉(29)が演じている義経はヤバイ奴で憎たらしい。脚本家・三谷幸喜氏(60)が歴史を捻じ曲げているわけではない。もとから義経は問題人物なのだ。義経の実像を探る。

 源義経(1159~1189年)にヒーローのイメージが定着したのは浄瑠璃や歌舞伎、映画、ドラマが美化したから。

 大河ドラマも同じ。以下の俳優たちが演じた過去5作の義経はことごとくカッコよかった。

 第4作「源義経」(1966年)尾上菊之助(79、現・尾上菊五郎)、第10作「新・平家物語」(1972年)志垣太郎(70)、第17作「草燃える」(1979年)国広富之(69)、第44作「義経」(2005年)滝沢秀明(40)、第51作「平清盛」(2012年)神木隆之介(28)。いずれもヤバイ奴とは程遠かった。

 義経像が盛られ始めたのは室町時代に書かれたとされる「義経記」以降。まず外見。鎌倉時代の「平家物語」では「背はひくく、出っ歯がひどい」と形容されているが、「義経記」では「楊貴妃のような見た目」と一変する。

 内面も同じ。「義経記」での義経は豪胆かつ楽天的で親しみやすい。まさにヒーローで、その後の浄瑠璃や歌舞伎の原型になる。もっとも、「義経記」の真実性への疑問は民俗学者の柳田國男や数々の歴史学者が早くから指摘している。マユツバなのだ

「鎌倉殿の13人」の基本資料となっている「吾妻鏡」や「愚管抄」「玉葉」「平家物語」などによると、義経は三谷史観の通りに残忍で卑劣。「鎌倉殿――」第8話でウサギ1匹のために罪のない狩人を殺したエピソードは三谷氏の創作であるものの、人の命を軽く考えていたのは確かだ。

 第16話で描かれた木曽義仲(青木崇高)との「宇治川の戦い」(1184年)の際には、「川岸が狭くて戦いづらい」という理由から、川べりの民家を焼き払ってしまった。これによって多くの住民が死んだ。

 その後も義経は住民の命や暮らしなどお構いなし。平知盛(岩男海史)を大将とする平氏軍と戦った「屋島の戦い」(1185年)では相手に大軍が急襲したと錯覚させるため、やはり村に火を放った。

 この戦いで義経は摂津国渡邊津(現大阪市)から讃岐国屋島(現高松市)に海路で向かったが、海が大荒れだったため、船頭たちは出航を渋った。すると義経は「船を出さないのなら殺す」と脅した。これではヒーローどころか、ならず者だ。

 平氏軍との最終決戦「壇ノ浦の戦い」(1985年)では、安徳天皇(相澤智咲)を死に追い込んでしまう。平清盛(松平健)の妻・時子と一緒に入水自殺させてしまった。安徳天皇はまだ6歳だった。

 また、歴代天皇が継承してきた3種の神器「鏡」「玉」「剣」のうち、「剣」を海中に沈ませてしまう。

 この時、後白河法皇 (西田敏行)の後押しで誕生したもう1人の天皇・後鳥羽天皇(尾上凛)が存在したものの、2人はどちらも法皇の孫で異母兄弟。安徳天皇は平氏に推されていたとはいえ、その命は何としても守らなくてはならなかった。

 源頼朝(大泉洋)も「安徳天皇と3種の神器は無事に京へお返しするように」と厳命していた。平氏滅亡より優先させなくてはならないことだった。けれど義経にはその自覚が薄かったらしい。

 この大失態を頼朝は許さなかった。「壇ノ浦の戦い」の後、義経に対し「剣」紛失の責任を厳しく追及した。

 また、第17話の通り、義経は後白河法皇から五位尉の官位と検非違使(京の治安維持を司る役人)の官職を与えられたが、これにも頼朝は怒りをあらわにした。

 頼朝は配下の武士たちに「自分の許しなく朝廷から叙位任官を受けてはならない」と通達していた。政治が鎌倉と朝廷の二重構造になってしまうことを避けようとしたからだ。義経にだけ厳しかったわけではない。ほかの無断任官者たちにも「鎌倉に帰って来るな」と通告した。

 頼朝が義経に腹を立てた理由はほかにもある。義経は「壇ノ浦の戦い」で捕虜にした平時忠の勧めに応じ、その娘・蕨姫を側室にした。時忠は清盛の妻・時子の兄で、平氏の超大物だった。

 義経は第17話で出会った静御前(石橋静河)も側室にする。頼朝にも亀(江口のりこ)ら複数の側室がいたが、相手が宿敵・平氏の娘となると事情がまるで違う。スキャンダルだ。

 配下の武士たちの士気にも影響する。そもそも時忠は義経と近い関係になることよって、特別扱いされることを狙っていた。危険な誘惑だったのだ。

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