オシムがジーコより先に代表監督になっていたら…忘れられない2006年「アジア杯」予選の思い出

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オシムが生んだ“伝統”

 そしてこの遠征では、今も日本の各年代の代表チームに受け継がれている“ある伝統”が生まれた。

 それまでの代表選手は、飛行機が遠征先の空港に着くと、機内持ち込みの私物の小型スーツケースやポーチを持って代表のチームバスに乗り込んでいた。

 ボールやコーン、ミニゴール、ビブス、ミネラルウォーターなどの練習に必要な山のような用具一式は、コーチやエキップメントが台車に乗せてバスへと運んでいた。それを見たオシム監督は、選手にも荷物運びを手伝うように指示したのである。

 以後、07年に東南アジア4カ国で開催されたアジアカップの試合地ベトナムでも、ホテルから練習場、練習場からホテルへの移動では、GKの川口能活や楢崎正剛らベテランが率先し、あえて重い荷物をチームバスに運ぶようになった。そうした姿を見て若手選手も手伝ったのは言うまでもない。

 2010年の南アW杯終了後、日本代表の監督に就任したアルベルト・ザッケローニ氏が最初に驚いたのは、日本の選手が率先してチームの荷物を運んでいることだった。その伝統は森保ジャパンにも受け継がれているはずである。

「後悔先に立たず」

 残念ながら07年のアジアカップは、準決勝でサウジアラビアに2-3と敗退。韓国との3位決定戦でも、延長戦では“走り勝った”日本がワンサイドで攻めながら、PK戦で涙を飲んだ。酷暑での大会にもかかわらず、走力で韓国を圧倒したのは初めてだった。

 このためGK川口は「僕は勝利至上主義ですが、やっていてワクワクしてすごく楽しかった。何かの大会が終わったあとは、『ああこれで、ひと段落終わったな』と思ってしまうんですけど、今回のアジアカップに関しては『この先がまだあるんだな』というのを凄く感じました」と話していた。

 そう感じたのは川口だけではなかっただろうし、そう思うファン・サポーターも多かったのではないだろうか。かくいう私も、その一人だった。

 オシム氏の訃報に際し、日本を始めヨーロッパからも哀悼の意が寄せられた。それだけ慕われた指導者だった。もしも彼が、監督経験のないジーコより先に日本代表の監督に就任していたら、日本のサッカーはもっと変わっていたかもしれない。イタリアW杯での経験と同様、「後悔先に立たず」である。悲しみはもちろん、それ以上に悔しさの募る、偉大な指導者の逝去だった。

六川亨(ろくかわ・とおる)
1957年、東京都生まれ。法政大学卒。「サッカーダイジェスト」の記者・編集長としてW杯、EURO、南米選手権などを取材。その後「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。

デイリー新潮編集部

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