斉藤立 全日本柔道選手権初優勝で思い出す、“偉大な父親”と山下泰裕の忘れがたき一戦

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「柔道日本一」を決める全日本選手権史上、初めての親子二代のチャンピオンが誕生した。優勝したのは14分21秒の死闘を制した斉藤立(たつる)(20)=東京=。20歳1か月の「日本一」は1948(昭和23)年に始まった伝統の大会史上、3番目の年少記録だった。ことしの全日本柔道選手権は4月29日、日本武道館(千代田区)で開かれた。ここ2年はコロナ禍で開催時期や開催場所も変則的になっていたが、「昭和の日」に観客を入れて伝統の武道館で開催するのは3年ぶりだ。(粟野仁雄/ジャーナリスト)

「足車」で技あり

 決勝で斉藤が昨年の世界選手権100キロ超級の覇者、影浦心(26)=推薦=をGS(延長戦)の大熱戦の末に「足車」で技ありを奪い、初優勝した。斉藤は、同大会で1977年から9連覇した山下泰裕全柔連会長(日本オリンピック委員会会長)のライバルで、2015年1月に癌のために54歳で亡くなった斉藤仁さん(ロサンゼルス五輪とソウル五輪で95キロ超級金メダリスト)の次男である。早くから「斉藤二世」の頭角を現し、小中高では常に日本一だった。

 ドーン。息詰まる攻防の末、延長10分21秒に影浦を畳に叩きつけると、観客は「うおーっ」と歓声を上げ、場内は大拍手に沸いた。一礼をして畳を降りた斉藤は、母・三恵子さん(57)や兄の一郎さん(23)と歓喜の抱擁を交わした。三恵子さんは「主人が常々、どうしても欲しかったと言っていた全日本のタイトル。こんなに早く取ってくれるとは。『まだまだだぞ』と言いながらも喜んでくれていると思います」と涙顔で喜んでいた。三恵子さんは若い頃、エール・フランス航空の客室乗務員(CA)の仕事で忙しく、大阪で子育てをしている間、夫の仁さんは東京に単身赴任している時期が長かったという。

 大会後、10月にタシケントで行われる世界選手権の代表選考会が開かれ、100キロ超級に斉藤が選ばれた。2年後のパリ五輪の最重量級代表のトップ候補に躍り出た斉藤は「五輪も勝てていないので、(仁さんと)並べるレベルではない。これからお父さんのような柔道を目指して五輪で優勝する。パリにしっかりピークを持っていく」などと話した。病床の仁さんが最後に息子にかけた言葉は「稽古に行け」だったという。現在、父と同じ国士舘大学生である。

大きな体格で柔軟な身体

 父の仁さんも柔軟な身体をしていたが、「斉藤二世」も体が柔らかく、バランスがいい。切れ味のいい影浦の左の背負い投げを何度も受けながらも、余裕を残していた。影浦は準決勝でもこの背負い投げを繰り出し、小川直也さん(バルセロナ五輪銀メダル 全日本選手権7度優勝)の二世である優勝候補の一角、小川雄勢(25)=東京=を破って決勝に上がっていた。

 準決勝で東京五輪100キロ超級代表の原沢久喜(29)=推薦=を延長戦で破ってきた斉藤が繰り出す左の内または、受けの強い影浦だからこそ、体が浮いても背中から落ちなかったが、並みの選手なら吹っ飛んでいる。全柔連の金野潤強化委員長は、斉藤について「大きな体をあれだけコントロールできる選手はまず見ない。高い運動能力と技術を備えている」と称賛した。敗れた影浦は「大きな相手に対する戦い方をもっと研究しなければ」としながら、斉藤について、「組み手が多彩になってきた」と称賛した。
 斉藤は父より二回りほど大きく191センチ、165キロを誇り、179センチ、115キロの影浦が小さく見える。記者に「最近、体がしまって見えますが」と言われると「体重は変わりませんが、みんなにそう言われます」と嬉しそうだった。

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