「弟は早すぎたけど、私は……」 石原慎太郎が昨年語っていた「裕次郎」秘話

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 2月1日、激動の時代に縦横無尽の活躍を見せた石原慎太郎氏が死去した。享年89。名優・石原裕次郎の兄にして芥川賞作家、戦後を代表するタカ派政治家で東京都知事も務めた。そんな石原氏が本誌(「週刊新潮」)だけに明かした、我が「太陽の季節」、「弟」との秘話を振り返る。

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「質問が下手だねぇ、君たちは。ありきたりなのじゃなくて、もっと面白い質問をしてくれよ」

 その日も“石原節”は健在だった。本誌記者が石原慎太郎氏にインタビューを行ったのは、訃報からちょうど1年前に当たる昨年1月29日のことだ。

 石原氏は1955年に「太陽の季節」を発表して文壇の寵児となる。同作が芥川賞を受賞した翌56年に本誌は創刊され、まもなく石原氏にとって初の連載小説「月蝕」が誌面を飾った。本誌の創刊65周年を機に依頼した昨年のインタビューのなかで、石原氏は「太陽の季節」が人々を熱狂させた時代、そして、弟・裕次郎について大いに語っている。その記事を再掲しながら、激動の生涯に終止符を打った故人を偲びたい。

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 私が「太陽の季節」を発表し、映画版が公開されたのは、ちょうど「戦後」が完全に終わった時期と重なります。実際、56年の経済白書には「もはや戦後ではない」という言葉が登場しました。どっちが先かは分からないが、経済白書をまとめた役人だけでなく、多くの日本人も戦後の終わり、そして、新たな時代の始まりを感じ取っていたわけです。

 文学の世界でも遠藤周作、吉行淳之介といった第三の新人と比べて、大江健三郎や開高健といった私と同世代の作家は書くものが歴然と違っていた。明らかに、ひとつの境目があったように感じますね。戦後の混乱と屈辱の日々が終わりを告げて、新たな日本の青春期、転換期が訪れようとしていた。私の書いた「太陽の季節」は、そうした世の中の変化を捉え、ある意味で象徴していたわけです。だからこそ、古い世代の人間から顰蹙を買った一方、多くの人々が共感し、同調したのだと思います。

「屈辱の時代」から解放された若者たち

 若い人たちには想像もつかないだろうが、占領下の日本は、それは惨めなものでした。大通りの真ん中をアメリカ兵が闊歩していて、私が知らん顔しながら通り過ぎようとすると、何が気に喰わなかったのかいきなり殴られたこともありました。そんな屈辱の時代から解放されて、若者が「やっと俺たちの時代がやってきた」と感じられるようになった。その兆しを『太陽の季節』に見出したのだと思いますね。

 一般出版社が手がける初めての週刊誌として「週刊新潮」が誕生したのもその頃です。「週刊新潮」の創刊当時は、楽しい時代でしたよ。それと比べていまは嫌な時代だね、本当に。週刊誌を筆頭に、他人のプライバシーを漁って、喰いモノにするメディアが跋扈している。豊洲問題のときなどは、私も心底、嫌な思いをしたものです。メディアが堕落して正当な評価が下せない、浅はかな時代になってしまった。「週刊新潮」にもその責任はあるぞ。

 のぼせて言うわけじゃないけれど、まさに日本が転換期にあった昭和30年代を飾ったのは私と弟(裕次郎)ですよ。それだけの自負がある。高見順が「作家は時代と一緒に寝なければならない」と言っていましたが、当時の私は寝たというよりも、時代と一緒に肩を組んで遊んでいる感覚だった。それは弟も同じだったかもしれない。さまざまな幸運が重なって、彼の素晴らしい才能が映画関係者に見出され、スターになりおおせたわけですから。

偶然から映画の世界に足を踏み入れた弟「石原裕次郎」

 弟を巡ってはこんなエピソードがあります。『太陽の季節』が映画化されるときに、日活のスタッフが湘南海岸にロケーションにやってきたんですね。しかし、当時の活動屋にとって、私の作品に登場するような風物は全く未知のものだった。多摩川の上流にある片田舎の日活村から、日本におけるヨット発祥の地を訪れたところで勝手が違いすぎる。スタッフが大型クルーザーを目にして騒ぐわけです。「あそこのヨット、寝床があるぞ!」と。

 そんな有り様だから、何か分からないことがあるとプロデューサーの水の江滝子が私を質問攻めにしてきた。さすがに面倒臭くなった私は、若者風俗の専門家である弟を紹介しました。弟は気ままにロケに付き合うようになり、主人公の長門裕之君の友人役として映画に出演することに。それからまもなく、水の江がこんなことを言った。

「スタッフは長門より弟さんの方が、主役にぴったりだと言ってるのよ」

 まぁ、誰が考えたって、「太陽の季節」の主人公は長門裕之じゃないよね。気の毒なほどミスマッチだった。とはいえ、そんな偶然によって弟は銀幕の世界に足を踏み入れました。

 そして、当時の活動屋は、まだ新人に過ぎなかった頃から弟にスターの輝きを見出していたと聞きます。あれは「太陽の季節」か、弟の初主演作「狂った果実」の時だったか、ベテランのカメラマンが水の江に声をかけたという。彼女に弟を捉えたファインダーを覗かせて「おい、水の江君、こいつ阪妻(ばんつま)だ。阪妻がいるよ!」と言ったらしい。阪東妻三郎ほどの名優に擬せられるのだから、やはり裕次郎はすごいですよ。

これからもっと憎まれてやろう

 一方で、「狂った果実」の中平康監督は大変だったと思います。

 とにかく弟は物怖じしないし、スタッフの前で監督を面罵する俳優は他にいなかったでしょう。

 たとえば、沖でヨットを操る弟が、カメラが据えられたハーバーの岸壁に近づくシーンも語り草になっています。折悪く逆風だったせいで、ヨットは反転を繰り返しながらジグザグに向かってくる。まもなく監督がいらいらしながら弟を怒鳴りつけたんです。

「なんでまっすぐ寄ってこないんだ!」

 すると、弟はこう返した。

「監督、ヨットってのは風まかせなの。ボートと違って風に向かって走れないんだから。そんなに言うなら自分でやってみろよ!」

 監督と仲が悪かったのも当然かもしれないな。ただ、映画自体はいま観直しても秀作だと思います。

 今年(2021年)1月、弟が興した石原プロモーションも幕を閉じました。ひとつの時代の終わりとまでは言わないけれど、弟も渡(哲也)も早すぎたな……。私がいつも慨嘆するのは、市川雷蔵にしろ、(美空)ひばりちゃんにしろ、本当の名優や歌姫は若くして亡くなってしまう。私みたいな憎まれ者は88歳まで生きている。それならば、これからもっと憎まれてやろうと思いますね。

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 生前最後となる、渾身の“石原節”だった。

週刊新潮 2022年2月10日号掲載

特集「追悼『石原慎太郎』が本誌に語り尽くした『我が「太陽の季節」』と『裕次郎』」より

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