石原慎太郎氏が逝去 週刊新潮に語っていた「昭和30年代を飾ったのは私と裕次郎」

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時代を飾った兄弟

 のぼせて言うわけじゃないけれど、まさに日本が転換期にあった昭和30年代を飾ったのは私と弟(裕次郎)ですよ。それだけの自負がある。

 高見順が「作家は時代と一緒に寝なければならない」と言っていましたが、当時の私は寝たというよりも、時代と一緒に肩を組んで遊んでいる感覚だった。それは弟も同じだったかもしれない。さまざまな幸運が重なって、彼の素晴らしい才能が映画関係者に見出され、スターになりおおせたわけですから。

 弟は56年公開の『太陽の季節』映画版でデビューを果たしますが、私も同じ年に自分の小説『日蝕の夏』を映画化した際に主演しています。破滅していくブルジョア青年の役で、徳川夢声が演技を激賞してくれた。若造だけど細かい演技が秀逸で見どころがある、とね。その頃、お世話になっていた東宝映画プロデューサーの藤本(真澄)さんにも褒めてもらった。物書き以外にも、飛んだり跳ねたりして面白い時代でした。

――創刊からまもない本誌(56年5月8日号)では、石原氏本人が『太陽の季節』の主人公を演じたがっており、東宝もそれを希望していると報じた。ちなみに、記事の結びはこうだった。

〈どうもこの春以降は、石原兄弟のタッグ・チームに映画界はひっかき回されそうである〉

 私の方が弟より美男だし、いまでも美老年だと思いますけどね。主人公をやりたかったわけではありません。「太陽の季節」には長門(裕之)君演じる主人公と会話を交わす、負傷したサッカー選手の役で少しだけ登場しています。それ以外にも4、5本の映画に出演しましたが、それ以降は作家業に専念した。俳優としては、弟の方があれよあれよという間にスターにのぼりつめましたからね。

 弟を巡ってはこんなエピソードがあります。『太陽の季節』が映画化されるときに、日活のスタッフが湘南海岸にロケーションにやってきたんですね。しかし、当時の活動屋にとって、私の作品に登場するような風物は全く未知のものだった。多摩川の上流にある片田舎の日活村から、日本におけるヨット発祥の地を訪れたところで勝手が違いすぎる。スタッフが大型クルーザーを目にして騒ぐわけです。「あそこのヨット、寝床があるぞ!」と。

 そんな有り様だから、何か分からないことがあるとプロデューサーの水の江滝子が私を質問攻めにしてきた。さすがに面倒臭くなった私は、若者風俗の専門家である弟を紹介したわけです。弟は気ままにロケに付き合うようになり、主人公の長門君の友人役として映画に出演することに。それからまもなく、水の江がこんなことを言ったんです。

「スタッフは、長門より弟さんの方が主役にぴったりだと言ってるのよ」

 まぁ、誰が考えたって、「太陽の季節」の主人公は長門裕之じゃないよね。気の毒なほどミスマッチだった。とはいえ、そんな偶然によって弟は銀幕の世界に足を踏み入れました。そして、当時の活動屋は、まだ新人に過ぎなかった頃から弟にスターの輝きを見出していたと聞きます。

 あれは「太陽の季節」か、弟の初主演作「狂った果実」の時だったか、ベテランのカメラマンが水の江に声をかけたという。彼女に弟を捉えたファインダーを覗かせて「おい、水の江君、こいつ阪妻(ばんつま)だ。阪妻がいるよ!」と言ったらしい。阪東妻三郎ほどの名優に擬せられるのだから、やはり裕次郎はすごいですよ。

巨匠トリュフォーも称賛

 一方で、「狂った果実」の中平康監督は大変だったと思います。とにかく弟は物怖じしないし、スタッフの前で監督を面罵する俳優は他にいなかったでしょう。

 たとえば、沖でヨットを操る弟が、カメラが据えられたハーバーの岸壁に近づくシーンも語り草になっています。折悪く逆風だったせいで、ヨットは反転を繰り返しながらジグザグに向かってくる。まもなく監督がいらいらしながら弟を怒鳴りつけたんです。

「なんでまっすぐ寄ってこないんだ!」

 すると、弟はこう返した。

「監督、ヨットってのは風まかせなの。ボートと違って風に向かって走れないんだから。そんなに言うなら自分でやってみろよ!」

 監督と仲が悪かったのも当然かもしれないな。ただ、映画自体はいま観直しても秀作だと思います。

 裕次郎はもちろん、その弟役の津川雅彦も素晴らしかった。誰かの結婚式か何かで、長門君の実弟である彼を見つけ、私がスカウトしたんです。津川雅彦という芸名は、私がそれまでに書いた小説の主人公の名前を組み合わせたもの。その結果、「狂った果実」は、裕次郎と津川雅彦という二大スターを生み出すことになりました。

 この映画には嬉しい後日談があります。62年に日・仏・独・伊・ポーランドの5カ国の若手監督による「二十歳の恋」というオムニバス映画が企画されたとき、私は日本編の監督・脚本を任されたんです。そして、この映画の総監督を務めたフランスの名匠、フランソワ・トリュフォーと会う機会があった。その際、私はこう語りかけました。

「あなたのヌーベルヴァーグ・タッチにとても共感するのですが、あれは何をヒントにしたのですか」

 それに対して彼は、

「以前に観た日本映画がとても洒落ていて、それを真似したのです」

 彼が挙げた日本映画のタイトルは「海浜の情熱」。そんな作品は聞いたことがないなと思って、詳しくストーリーを尋ねたら、実は「狂った果実」の海外上映時のタイトルだった。世界は広いようで狭いものだと感じましたよ。ちなみに、私が手がけたオムニバス映画は残酷な殺人事件をモデルにしたせいか、日本の評論家からはボロクソに叩かれました。しかし、トリュフォーは「あなたの作品のイデーが最も綺麗でした。オリンピックに勝ちましたね」と言ってくれた。その言葉はいまでも鮮明に記憶しているね。

 あの時代の日本を熱狂させた、いわゆる太陽族映画がヌーベルヴァーグの始祖に認められた。それは誇らしく思いますよ。

 今年1月、弟が興した石原プロモーションも幕を閉じました。ひとつの時代の終わりとまでは言わないけれど、弟も渡(哲也)も早すぎたな……。私がいつも慨嘆するのは、市川雷蔵にしろ、(美空)ひばりちゃんにしろ、本当の名優や歌姫は若くして亡くなってしまう。私みたいな憎まれ者は88歳まで生きている。それならば、これからもっと憎まれてやろうと思いますね。

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