ネット上で盛り上がる「愛子天皇待望論」 女性天皇はこれまで8人 波瀾万丈の人生を専門家はどう見ているか

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独身で即位した女性天皇

 病死した草壁皇子の妻であり第42代・文武天皇の母が、4人目の女性天皇となった第43代の元明天皇(661~721)だ。

「707年に25歳で崩御した文武天皇の後継は、第45代の聖武天皇(701~756)と決まっていましたが、まだ6歳と幼かったことから、母である元明天皇が即位しました。藤原不比等(659~720)を重用し、和同開珎の鋳造や平城京への遷都など、歴史的な施策を進めました」(同・記者)

 715年、元明天皇は退位する。だが、聖武天皇はまだ10代半ばだった。依然として時期尚早と、元正天皇(680~748)が第44代の天皇に即位する。

 5人目の女性天皇である元正天皇は、父が草壁皇子で母が第43代の元明天皇。結婚経験がなく、独身で即位した初めての女性天皇だった。

「母が第43代の元明天皇、娘が第44代の元正天皇と、母から娘に皇位が継承されたのは皇室史上唯一の例です。在位中の723年に、開墾地の私有を認める三世一身法が制定されました。律令制が制度疲労を起こしてきた時期に即位した女性天皇となります」(同・記者)

孝謙天皇と道鏡

 第46代の孝謙天皇と重祚による第48代の称徳天皇(718~770)が、6人目の女性天皇だ。父は第45代の聖武天皇になる。孝謙天皇から、道鏡(700?~772)を思い出した人もいるだろう。

「聖武天皇は男子に恵まれなかったため、史上唯一の女性皇太子でもありました。聖武天皇から譲位され、749年に孝謙天皇として即位しました。758年に第47代の淳仁天皇(733~765)に譲位し、孝謙上皇となります。この時代、病に伏せった上皇が、僧侶の道鏡の看病を受けたエピソードは有名です。これをきっかけに、孝謙上皇は道鏡を寵愛するようになりました」(同・記者)

 764年、孝謙上皇に反旗を翻す藤原仲麻呂(706~764)の乱が勃発する。しかし、上皇は事前に計画を察知し、藤原仲麻呂は制圧され殺される。淳仁天皇は廃位となり、流刑となった。

「孝謙上皇は天皇に復位し、称徳天皇となりました。道鏡の寵愛は変わりませんでしたが、770年に病臥すると、崩御するまで道鏡と会うことはありませんでした。道鏡の権威は失墜して失脚。下野国(現在の栃木県)に左遷されました」(同・記者)

悲劇の明正天皇

 これから約850年の間、女性天皇が即位することはなかった。

 7人目の女性天皇は、1629年に即位した第109代の明正天皇(1624~1696)。父は先代である第108代・後水尾天皇(1596~1680)、母は第2代将軍・徳川秀忠の五女・徳川和子(1607~1678)。徳川将軍家を外戚とした唯一の天皇だ。

「女性天皇が久しぶりに誕生した直接的な背景は、後水尾天皇に男子が恵まれなかったからです。しかし、真の原因は、この頃、徳川幕府と朝廷が対立関係にあったためです。幕府は朝廷への統制を強めており、その象徴が1615年に制定された禁中並公家諸法度でした。後水尾天皇は半ば嫌がらせのような形で、幕府には一切伝えずに退位し、娘を即位させて明正天皇が誕生したのです」(同・記者)

 その時、明正天皇は何と数えで7歳、満年齢だと5歳だったという。この年齢では天皇としての職責が果たせるはずもなく、後水尾天皇が院政を敷いていたと考えられている。

「その後、幕府と朝廷は和解し、1642年、明正天皇は21歳で譲位します。ところが、第3代将軍の徳川家光(1604~1651)から、かなり厳しい外出や面会の制限を課され、監禁に近い状態に置かれました」(同・記者)

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